2024年12月23日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2023年5月27日

 上級生による理不尽な「暴力支配」が学年ごとの結束を生み、「強さ」の源泉となったという見方もできる。だが、それも限度というものがある。

 <2000年代に入り、度々暴力事件が明るみに出て、高野連から何度も対外試合禁止処分などを受けてきたPLではあるが、高野連に報告せざるを得ない事件は、氷山の一角でしかなく、先輩からの暴力は日常的に、「説教」という名目で行われていたのである。>(118頁)

 最も世間を騒がせた暴力事件が発覚したのは01年6月だった。2年生部員が「先輩の野球部員からパイプ椅子で殴られ、頭髪をバリカンで刈られるなどの暴行を受けた」として学園と先輩野球部員、監督らを相手取り187万円の損害賠償を求める訴えを起こした。

 事件が起きたのは同年3月だったが、提訴したのは夏の甲子園出場がかかった大阪大会の組み合わせ抽選の前日。このタイミングでの提訴に、優勝候補だったPL学園は出場辞退と、監督の河野有道が引責辞任へと発展した。

 3月に事件が起きた当時、学校側は加害部員に謹慎処分を科したが、高野連には報告せず、このことが事件の隠蔽と受け取られた。監督の辞任以上に影響が大きかったのは、スカウト部門の中心にいた井元も教団を離れることになったこと。事件を起こした上級生も、被害に遭った下級生も、PLに勧誘したのは井元だったからだ。

 <徳近が鬼籍に入って15年が経過する中で、一枚岩となっていた教団と学園と、そして野球部の関係性は崩れていた。とりわけ教団と野球部の間に大きな溝が生まれていた。2001年に発覚した暴力事件によって、PL教団は野球部を縮小する方向に大きく舵を切った。>(133頁)

野球経験のない校長が監督を兼任

 その後も野球部の不祥事は続いた。08年には河野の後を受けて監督に就任した藤原弘介が部員に暴力をふるって解任された。河野が再び監督に戻ったが、11年に続いて13年にも上級生による下級生への暴力事件が発生し、6カ月の対外試合禁止の処分が下された。河野は2度目の辞任を余儀なくされた。

 13年秋、教団は思い切った策を打ち出した。野球経験のない正井一真校長が野球部の監督を兼任することにした。伝統あるPL学園野球部は、この時から実質的に廃部への道を歩み始める。

 14年度から特待生の受け入れ停止を決定。さらに同年秋、「15年度から野球部の新入部員の募集を停止する」と発表した。特待生が一人もいない14年度に入学した62期生12人が最後の野球部員となった。

 62期生が2年生になった15年夏の大阪大会。校長兼監督の正木は野球とは無縁の東北の教団支部に転勤となり、やはり野球経験のない校長の草野裕樹が監督を務めていたが、PL学園はまだ優勝候補の一角とみられていた。1学年上の61期生にはシニアリーグの大阪代表に選ばれた選手らが数多くいたからだ。

 62期生はベンチ入りメンバーに一人もいなかった。PL学園は準々決勝で大体大浪商に敗れ、甲子園出場はならなかった。


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