そういえば見城氏も『絶望しきって死ぬために、今を熱狂して生きろ』(同)で「十勝五敗でずっと勝ち越す。それができれば、どのビジネスもうまくゆく」と述べておられるが、これも見事に信玄流の七分勝ち理論だ。そして同時に、というよりこれが目玉なのだが、「いつも最悪を想定し、最高の結果をたたき出す」とその信念を披瀝している。
最悪を想定し、次世代への準備
信玄も、「もし明日、黄金が採れなくなったら」と最悪の可能性を念頭に置いて最善の結果を得るべく行動したことは間違いない。
そしてそれと同時に、彼は「もし明日、自分が死んだら」というもうひとつの最悪のシナリオも考え合わせていた。それもかなり現実的に。
というのは、信玄が発病したのは何もこのときが初めてではなく、死の6年間にはすでに彼の侍医が「膈(かく)という病気にかかっておられる」と診断していたという。
膈というのは当時「胃が食べたものを受け付けずに吐き出してしまう病」をいい、現代なら胃癌か食道癌にあたるのだろう。
発病と小康を繰り返しながら徐々に悪化していくのを自覚しながら、信玄は切実に最悪を想定し、いかにリスクを減らして武田家の繁栄を次代にも実現するか、そればかりを思案したに違いない。
その結論が、武田家の力の源泉・金山だった。黒川金山などが衰えた場合でも、ほかの金山をセーフティネットとして確保しておく。
財源さえあれば、自分に万一のことがあっても武田家の勢威は保たれる。
津具金山、かな山だけの話ではない。この時点から20年ほど後の池田輝政が領主となった時代には津具の西・長篠の北の段戸山(現在の鷹ノ巣山)でも金鉱が発見される。信玄に近しい山師も「今後この一帯ではまだまだ新たな金山が発見できる見込みが高いです」と報告していたに違いない。
すでに金山や鉛山があり、有望な金鉱がこれからも発見される確率が高い長篠以北。
「わしの目が黒い内に何が何でもしっかり固めておかなければ…」
そう考えた信玄が元亀2年(1571年)三河に侵入して吉田城あたりを荒らし回った末に設楽郡一帯の支配体制を整えて引き揚げたのも、津具金山やかな山をしっかり押さえておく段取りだったし、翌年の三方ヶ原の戦いの前にはあらかじめ別働隊に野田を荒らし回らせ、戦いのあとは体調が悪いにも関わらず遠江国の刑部で年越ししてまで野田城攻めにこだわったのも、なんとか自分の目の黒いうちに鉱山を守り繁栄させる目処をつけておきたい、という執念のなせる業だった。
単純に軍勢の数と日数だけで考えても、元亀2年に33日間2万3000人、同3~4年に129日間2万7000人なら兵糧米だけで2万5500石程度が必要となり、115億円近くをかけた壮大な〝終活〟だったことが分かる。
こうして信玄は野田城を補修し、長篠城とその西の作手城(亀山城)に強化工事を施させたうえで、病を養いながら北へ去り、信濃駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村の内)で臨終を迎えたのだった。