鉱山という武田家の大きな収入源
では、それは何か。
ズバリ言うと、鉱山だ。
野田や長篠から北に進み、信玄の領国の信濃に入る手前には津具という土地があるのだが、そこには金山があった。それも、信玄みずからが前年(元亀3年)頃に開発したというピカピカの新品金山だ。おそらく、信玄に従った田峯城(長篠と津具の中間)・武節城(津具の北西)の菅沼氏らが発見したのだろう。
その産金量は膨大で、一説には24万両などとも伝わるが、これは武田家領内各地の金山から産出した総量であって、津具金山のゴールドラッシュはそこまでではない。それでも、かなりの黄金が湧き出す魅惑の土地だった。実際、この津具金山は織田・徳川によって天正10年(1582年)頃まで採掘されたという。
そして、長篠のすぐ北東隣には「かな山」という名の、睦平の鉛鉱山がある。これも信玄が開発させたものだ。
いうまでもなく津具から掘り出される黄金は重要だが、このかな山の鉛もまた貴重、鉛は黄金とセットなのだから。
なぜかって?採掘された金鉱石は熱して砕かれ、含有される黄金は当時の最先端技術「灰吹法」によって鉛に溶け込まされる。それを加熱して金を分離させるという「錬金術」には、鉛が絶対に不可欠。(ちなみに、火縄銃の銃弾も鉛勢がほとんどだが、こちらはタイなど外国から輸入された鉛が使用されることが多かったそうだ。国内産と外国産で用途が異なる理由は何か、筆者も知らないのである。)
痩せた領地の中での〝生命線〟
そもそもの話、信玄が率いる武田軍団の本拠である甲斐という国は、広い平地といえば甲府盆地ぐらいであとはほぼ山岳というおよそ農業には不向きな地形だ。そのうえ河川の氾濫など天災も相次ぎ、餓死者が絶えないような痩せた土地だった。
そんな貧乏国の大名・信玄が近隣を席巻できたのは、ひとえに甲斐国内の黒川金山(現在の山梨県甲州市塩山の内)の存在が大きかった。信玄の投資も的確だったのだろうが、ちょうど最盛期を迎えた黒川金山(「黒川千軒」と呼ばれる鉱山町が発展したのもこの頃)が信玄の戦略と作戦行動を支えたのだ。他にも中山金山など多くの金山を抱えた信玄だが、武田家のインカムのほとんどが金山に頼るという状況を、信玄はどう考えていただろう?彼が好んで用いた格言がある。
「勝って兜の緒を締めよ」
古代中国の思想家・荀子の言葉だが、そうでなくても信玄さんには(若い頃は別として)慎重居士で常に何手も先を読んで事を進める人という印象、あるよね。
「つねに深く考えてよく分別し、それでも足りなければ家臣や一族に相談すれば手抜かりの部分も見えてくる」「戦は五分の勝ちが最上だ」というのもある。
そんな信玄が、金山から順調に黄金が湧き出ているからといって、万事OK!人生イージーモード!!でいってしまうとは考えづらい。
幻冬舎を率いる見城徹氏は共著『憂鬱でなければ、仕事じゃない』(講談社+α文庫)の中で
「仕事がスムーズに進んでいる時、『うまくいっている』とは、断じて思うべきではない。むしろ、疑ってかかるべきだ」「成功は、異常なことなのだ。異常を異常と思わなければ、ついには身を滅ぼしてしまう」
と説いているが、経営者に限らず群を抜いて有能な人物、劫を経たというものは常にこうした心構えを持っているものだろう。