武田家の失敗
ところが、だ。信玄が万全の策を講じた筈の長篠城・野田城が、信玄の死後間もなく徳川軍の攻勢によって陥落してしまったのだ。勝頼も「援軍を送る」とは言っていたのだが、三河方面に出陣したのは武田信豊・土屋昌続ら。北遠江へ侵攻した山県昌景・穴山信君・武田信竜らに比べると、一枚劣る感は否めない。戦力を分散したあげくに大事な長篠・野田を失ってしまっては元も子もなかったのだが、信玄死後の混乱もあり、勝頼の主導権の確立がなかなか進まないこともあり、現地の情勢に迅速柔軟に対応できなかったということだろう。
あっさりと長篠を失ったとき、近くの睦平のかな山(鉛山)も失陥したに違いない。北の津具だって、そのうち危なくなることは誰にだって分かる。こうして信玄の命がけの〝終活〟は、わずか半年でもろくも崩壊してしまったのだ。
それだけではない。信玄亡き後、その娘婿である一門衆筆頭の穴山信君は勝頼にとっていとこでありまた義理の兄ということにもなって、ちょっと遠慮が必要になる関係だったのだが、その信君が駿河江尻の城代として駿河の富士金山を支配していたのだから厄介な話だ。採鉱の実務について直接指示がしづらく、運上(採掘した黄金の納入)の額について疑問があっても、厳しく詮議するのがためらわれるところだ。
代替わりしたばかりの勝頼の不安材料はこれだけではない。ホント気の毒。
頼りの黒川金山の話なのだが、長篠の戦いの2年後の天正5年(1577年)にこんな文書がある。
「金山において黄金出来(しゅったい)無く」(武田家印判状)。
黒川の金山衆(黄金を採掘する専門家集団)に対して勝頼の奉行が産金量の減少を公式に追認しているわけだ。
ということは、それより以前に採掘量の減少は始まっていた筈で、すでに元亀4年~天正元年(1573年)に黒川金山の採掘量がピークを超えて現状維持から右肩下がりになる兆候を見せていたとしても何の不思議もない。
こうなってみると、勝頼も長篠・野田を失ったことがいかに重大な結果を招いたか身に沁みて理解できただろう。
「なんとしても津具金山の安全を担保し、睦平のかな山の鉛も取り戻さなければならぬ!」
こうして勝頼は長篠城の奪回に動くのだが、武田家の情報を詳細に収拾し分析していた織田・徳川にとってもそんなことは百も承知、想定内、むしろ「天の与えるところ」と喜んじゃうレベルだった。
というわけで、次回はやっと長篠の戦い本番にまつわるマネー事情。
『日本歴史地名大系23 愛知県の地名』(平凡社)
『甲府市史 史料編 第一巻 原始古代中世』
『常山紀談』(岩波文庫)
『名将言行録』(人物往来社)
『甲陽軍鑑』(同)
『信長公記』(角川文庫)