2024年4月27日(土)

サラリーマンがひも解く歴史学

2019年5月19日

 「そんな昔の話でもないんだ」

 改元が行われて令和となる数日前、我が家人は新聞を読みながらこう呟いた。元号を君主(日本では天皇)の在位中には変更しない一世一元の制が日本で始まったのは明治時代からだったということを知っての反応だ。私にとっては既知のことのため、何を今更ながらと思ってしまったものの、令和を含めてこれまでに元号は248あるが、一世一元となったのは明治から令和までのわすが5つなのだ(令和だって今後どうなるかわからない)。

 信じられてきている伝統は実はそう古くない昔に人為的に作られたものであり、歴史のイメージを様々に問い直す必要があると感じた。そんな家人の平成末の呟きだった。

 日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

(isaxar/gettyimages)

 こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

 石田三成は永禄三年(1560)に近江(現在の滋賀県)に生まれ、豊臣秀吉にその才能を見出されたことで知られる武将だ。慶長五年(1600)に起きた天下分け目の関ヶ原の戦いでは、西軍の中心人物として、三成の所領の十倍以上を治める大大名、徳川家康に勝負を挑み、敗れて処刑されたことは有名だ。

 三成について『戦国武将合戦辞典』(吉川弘文館)は、「武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった」としている。

 その一方で三成につきまとうイメージは戦下手。映画にもなった『のぼうの城』(和田竜、小学館)で三成は、水攻めなどを用いて忍城を攻めるも、結局落とすことができず、まさに戦闘では役に立たないような武将として描かれている。

 さらに三成のイメージを悪くしている一つに、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)での軋轢だ。奉行として渡海するなどした三成だったが、前線で戦うことはなく、その役目は食糧の輸送や戦闘状況をチェックしての秀吉への報告だった。報告の中には三成が処分を求めて実際に処罰されてしまった武将もいたものだから、加藤清正や黒田長政ら前線指揮官の武人派からは「ちくり」だと怒りを買ってしまう。

 さらには、千利休切腹事件では利休の娘をあぶり責めにしたとか、関白豊臣秀次事件では残忍な追及を行ったとされ、朝日新聞社編の『日本歴史人物辞典』では「性酷薄で苛察を好み、人望を失った」とまで酷評されてしまっている。

 これには、天下をとった家康に刃向かったという要素も大きく影響しているだろう。徳川政権下に記された書物では、出世のために他人を陥れる器の小さい野心家として描かれることが多い。こうした影響から、現在でも三成と言えば、「佞臣」「謀臣」とイメージする人は多いかもしれない。

 ではなぜ、三成が太平洋戦争の敗戦に影響しているのかというと、またしても『戦国武将合戦辞典」の記述を拝借したい。戦闘能力が高かったとの記述はないが、「戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した』とある。


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