2024年12月22日(日)

偉人の愛した一室

2024年12月22日

 石破茂首相が中国から好意的に迎えられたのは日中外交の〝井戸を掘った人〟田中角栄の直系政治家と目されているからだという。ならば、敵サンからみた最大の奸物はこの男、日本外交の父と称される陸奥宗光ということになるだろうか。

 明治政府がようやく落ち着きを見せる1880年代、朝鮮半島の権益を巡って日本と清の対立が表面化する。大国清との衝突に及び腰な政府の中で、陸奥は武力による決着を主張して外交を主導し、開戦と勝利に大きな役割を果たす。さらに、講和会議から〝三国干渉〟に至る難局を類稀なる外交手腕で乗り切り、明治日本の国際的な地位確立に大きな功績を残した。

 そんな陸奥も、その前半生は平坦なものではなかった。

 父親は紀州徳川家の重職をつとめたものの、引き立ててくれた藩主の死によって失脚、一家は窮乏する。

 だが、陸奥の利発さを惜しむ高野山の高僧らの計らいで江戸に出る機会を得ると、貧しいながらも陸奥の前途は開かれていった。辻原登の『陥穽 陸奥宗光の青春』(日本経済新聞出版)によれば、父親は行政手腕に秀でたのみならず、優れた歴史書を残すほどの傑物だった。父の伝手をたぐった陸奥は、勝海舟、桂小五郎、伊藤博文らと面識を持ち、さらには英国外交官アーネスト・サトウから知遇を得る。これが後々、陸奥の大きな力となってゆく。

 その後は、勝の神戸海軍操練所に加わり、その中心人物だった坂本龍馬と行動をともにし、幕末の風雲の中へ飛び込んでゆく。早くから外国の知識の重要さに目覚めていた陸奥は、持ち前の向学心と知性によって欧米の政治思想を貪欲に学び、それを基に、龍馬や桂らに進んで建言を行って、彼らから高い評価を得ることにもつながっていった。

 だが、哀しいかな、後ろ盾がなかった。明治新政府に出仕した陸奥に薩長藩閥政治の壁が立ちはだかる。能力に応じた地位を与えられない失望と苛立ちから、西南戦争に乗じた政府転覆計画に加担、獄に繋がれるという大きな挫折を味わうのだった。明敏な知性がなぜ、かくも杜撰な計画に乗ってしまったのか。ぜひ、辻原氏の著作を繙かれたい。

 そんな陸奥の苦境を救ったのは、生涯の盟友ともいえる伊藤だった。伊藤の勧めで欧州に留学、帰国後に外務省に出仕すると、外交の表舞台で次々と大きな仕事を成し遂げてゆく。若き日から海外の政治思想に通じていた陸奥に、ようやく相応しい場が与えられたのだった。

 一方で、苛酷な収監により悪化した肺の病が陸奥の肉体をむしばんでゆく。外交の舞台での激務の中、陸奥は療養のための別荘地を探し求める。選んだ先が相模湾の浜辺に面した風光の地、大磯であった。

庭園には陸奥にゆかりのあるみかんや柿の果樹園やバラ園もあり四季折々の景色を楽しむことができる(WEDGE以下同) 写真を拡大

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