2025年1月9日(木)

偉人の愛した一室

2024年12月22日

明治期の偉人たちが
愛した大磯

 江戸時代に海水浴という考えはない。85(明治18)年、陸軍軍医の提唱で、健康増進を目的とした海水浴場が大磯に開かれたのが最初とされる。以降、この地は要人たちの保養地として発展を遂げるのだが、その中心となったのは伊藤博文を頭とする憲政派だった。

 別邸のある小田原への道すがら、この地の風光に目をつけていた伊藤は、96(明治29)年、浜辺に面した丘陵地に新たな邸宅を設ける。陸奥と大隈重信も同じころに別邸を建設するが、陸奥には、肺の病の療養という、より切実な目的があった。

 現在、3人に西園寺公望を加えた4人の別邸が、国交省関東地方整備局により維持管理されている。ただし、陸奥邸についていえば、次男が養子に入った古河家によって、昭和に入って建て替えられたものだ。寄棟造りの木造平屋建て、家族と来客用に多数の部屋がある他、使用人部屋も備わる豪壮な和風建築である。

玄関上部にある扁額。太田晦巌が改修後の古河別邸を「聴漁荘」と名付けた

 「聴漁荘」と掲げる玄関を入ると、前室を隔てて、右が書生部屋、左手に8畳と10畳の和室が海に面して連なる。図面や写真を基に作成された陸奥の時代の建築模型が展示されていて、比較すると、この二間はかつてに倣って作られたように見える。

当時を検討した図面と現在を見比べながら、古河邸となった空間に陸奥時代の面影を見つけるのも面白い
現在の古河邸は陸奥邸の原形を残しつつも大きく増築されていることが分かる

 格天井に欄間、床の間がつく設えから、10畳の間が陸奥の療養した主室兼応接間であり、8畳は家族の居室だったと想像される。三国干渉の最中も、陸奥は床に横たわったまま、伊藤の諮問に応じ、外務省に指示を出したという。

別邸から5分ほど歩くと大磯の海岸が現れる。かつては別邸内から海を一望できたという

 この二間には畳敷きの入側(縁側)が回され、外側3分の1ほどは板敷きにしてある。いまは敷地と浜辺がバイパス道路で遮られるが、陸奥の頃には、砂浜を楽しんだ足で、そのまま家に上がったものだろう。

外側を板張りにした縁側は外から直接、居室内に上がることも考慮した海浜別荘らしいつくりだ
下駄についた砂を外に落とすために最下段は板の間に隙間がある。砂浜が近い邸宅ならではの工夫だ

 この入側に立つと、いまも潮騒が聞こえてくる。激務を縫って床に横たわる陸奥の耳に、湘南の穏やかな波音はどんな感懐を呼び起こしたろうか。寸暇もなかった来し方か。或いは、故郷の紀州を想って子守歌のように聞いていたかもしれない。

南側に面した二間の和室には大きなガラス窓から柔らかな光が差し込む。現在、入側にはテーブルセットが置かれているが、陸奥も当時の邸宅でここから自慢の庭や大磯の海を眺めていたのかもしれない
古河邸時代に増築された台所。古河邸は玄関から入って手前におもてなし用の空間、中間が家族の居室、一番奥に台所や使用人の部屋となっており、機能的な設計だ

 大磯での陸奥の療養はわずか2年で終わった。それでも、海に向かう松林の中で英国式にお茶を楽しむ写真が残されている。傍らには〝鹿鳴館の華〟と謳われた亮子夫人の姿も。

 衰えゆく日々の中、陸奥は寸暇を惜しんで回顧録の筆を執る。いまに遺された克明な外交記録は『蹇蹇録』と名付けられ、明治外交の第一級史料となった。

邸宅内には病状が悪化しながらも陸奥が口述筆記によって記録した『蹇蹇録』の草稿綴も展示されている
古河邸時代に増築された湯殿(風呂)。上部に湯気抜きを持つ意匠のこらされた天井や、昭和初期のシャワーなどが今も残る
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Wedge 2025年1月号より
移民問題に揺れる世界 水面下で進む日本人の海外流出
移民問題に揺れる世界 水面下で進む日本人の海外流出

世界は今、移民・難民問題で大きく揺れ動いている。事実、2024年11月の米大統領選挙では、不法移民対策が大きな争点となった。彼らは命がけで故郷を離れ、今この瞬間も、米国や欧州大陸を目指し、移動を続けている。その光景は、戦前・戦後に日本人が「出稼ぎ移民」として、ブラジルやパラグアイを目指した姿とも重なる。翻って、現代日本。かつての状況と異なるものの、今、静かに日本人の海外流出が続き、23年の永住者は調査開始以降、最多の約57万5000人に達した。豊かで暮らしやすいと思われている日本から、なぜ日本人は〝脱出〟していくのか。彼らの動きが物語ること、そして、これからの日本社会に必要なことを考えたい。


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