優れた写実表現で作家仲間からも尊敬され、「小説の神様」と称された志賀直哉は、意外なことに、引っ越し魔であった。生涯、23度にわたり居を改め、東京に腰を落ち着けるまで、日本各地を転々とした。その足跡は京都や奈良、鎌倉といった古都のみならず、尾道や松江、群馬の赤城山にまで及んでいる。
その志賀は1915(大正4)年から23年まで、千葉の我孫子で暮らしている。この間は小説家としての充実期にあたり、代表作の「小僧の神様」や「真鶴」といった短編のほか、長編「暗夜行路」の連載もここでスタートさせた。
だが、この長編執筆に行き詰まったこともあり、志賀は心機一転を図り、京都の粟田口、さらに半年後に山科へと移り、25(大正14)年の春からは奈良に居住する。奈良では、自身で設計した自宅に瀧井孝作、小林秀雄、小林多喜二といった新進作家たちが志賀を慕って集い、さながら文学サロンの様相を呈する。
美しい四季の移ろい、歴史や文化の色合い深い古都の風情、そして若い作家たちとの文学談議、京都、奈良での時間は志賀を癒やし、その後の作品世界を生み出す沃野となっていった。近代小説の最高傑作とも評される『暗夜行路』が完結したのは37(昭和12)年であり、志賀が奈良を離れて東京に戻る前年であった。
この名作に登場するすっぽん料理屋、志賀ら作家から愛され、いまも食通たち垂涎の名店が、京都で独自の味を守り続けている。
洛西、千本中立売の交差点に近い「大市」の創業は江戸時代、340年ほど前になるが、今のご当主、18代目にあたる青山佳生さんによれば、過去帳に残る初代の没年が1689(元禄2)年だから、ということになる。初代は侍だった。辺りの池で捕れるすっぽんを鍋にする煮売り屋、いまでいうテイクアウト中心の店であり、時に出前にも応じていたようだと話す。