2024年12月22日(日)

偉人の愛した一室

2024年4月21日

蓬春のこだわりが詰まった開放感溢れる画室。窓からは岩城造園が作った広大な庭を眺めることができる。春子夫人により丹念に手入れされていた庭には、蓬春がモチーフとするために植えた草花などが今も美しく咲き誇る(HOSHUN YAMAGUCHI MEMORIAL HALL)写真を拡大

 明治から昭和前期にかけての近代日本の歩みは、先進的な西欧文明と日本固有の文化とをどう融合させてゆくか、そこにすべて収斂されるといっていい。とりわけ芸術家たちは、それが選ばれし人間であるほど、この壁に立ち向かう葛藤と苦しみは深く、それを乗り越えたとき、行く手にある栄光は輝かしいものとなった。日本画の新しい表現を求めて研鑽に研鑽を重ねた山口蓬春の生涯は、まさにその典型といえるかもしれない。

 

 1923(大正12)年、東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科を首席で卒業した蓬春は、26年の帝展出品作が特選となり、帝国美術院賞、さらには皇室買い上げという三重の栄に浴し、華々しい画壇デビューを飾る。松岡映丘率いる「新興大和絵会」の同人となり、その確かな技法で伝統画に新風を吹き込んでいった蓬春だが、その状況に飽き足らず、30(昭和5)年、ジャンルを超えた画家たちと「六潮会」を結成し、さらなる新しい表現を模索してゆく。やがて、徹底した自然観照をもとに写実表現に挑戦するなど、より自由な境地へと進んでゆくのだが、この頃の作品は、その技術の高さには驚くほかない。まさに日本画のエリート中のエリートであった。

 だが、特筆すべきは、日本画の研鑽を重ねる一方、この頃からすでに西欧の美術に強い関心を寄せ、豪華美術画集を蒐集してその吸収を図っていたことだろう。哀しいかな、その影響が画風に表れる頃、日本は西欧文明との葛藤と衝突の末、破局への道を突き進んでしまう。多くのエリート芸術家たちと同様、蓬春もまた、従軍画家として戦争に協力せざるを得なくなる。ある思想家は、国民は黙って国難に処した、そう表現したが、芸術家たちも、日本が背負う宿命に殉じる他、道はなかったように思われる。因みに、蓬春とともに戦地に赴いたのは、あの藤田嗣治だった。そこから敗戦までの苦悩が彼らに何をもたらしたのか、戦後の作品がそれを教えてくれるはずだ。

逗子駅からバスに乗り、三ケ丘で降りて小道を上ると、海と山に囲まれた丘の上にある蓬春邸が姿を現す(同)

 47(昭和22)年、疎開先から戻った蓬春は、葉山にある山崎種二(山種美術館創設者)の別荘に仮住まいする。海を望む景色と明るい風光を気に入り、近所にあった屋敷を購入する。勧めたのは美校以来の親友、建築家の吉田五十八であった。

 後に〈蓬春モダニズム〉と呼ばれる画風、47年の「山湖」から、代表作「望郷」に至る作品群にみられる斬新な作風は、この葉山の地で生み出されてゆく。そこに表れた確かなフォルムと明るい色調には、新しい時代、新しい日本画への意欲が強くにじむ一方で、伝統文化の破滅という苦難に耐え、そこから立ち上がろうとする芸術家の苦闘も感じられてならない。ここに蓬春の画業は最初の到達点に行き着いたといえる。

 そうした状況の中、蓬春はかねての念願だった新しいアトリエ造りに取り掛かった。設計は当然ながら吉田五十八、モダニズム建築の巨匠と呼ばれることになる天才が、盟友のために丹精こめた画室が完成したのは53(昭和28)年も末のことだった。


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