横山大観が画家を志す以前、建築家を目指していたことはあまり知られていない。それが頷ける建物、自ら設計を主導し、生涯の大半を過ごした邸宅が、東京上野の不忍池に面した地に残されている。
明治初年に水戸藩士の家に生まれた大観は、1889(明治22)年、東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに日本画を学ぶ。同期に下村観山、一期下に菱田春草がいた。卒業後、京都で仏画を研究し、母校に助教授として戻ったのも束の間、98年、校長であった天心の排斥運動が起こり、師と行動を共にして職を辞した。天心の創設した日本美術院に参画する。
画壇では、新しい時代に乗って西洋画の大波が到来していた。革新を迫られた大観、春草らは、日本美術院で新しい画法を必死に模索する。やがて、日本画の伝統である線描を大胆に抑え、絵の具の濃淡によってモノの輪郭を描き出す画法にたどり着く。世にいう〝朦朧体〟の誕生だった。当然、伝統派からは強い批判を浴びた。朦朧という形容も、ぼんやりした絵、そんな意味だった。
だが、大観と春草は諦めなかった。勇躍、海外に活路を求め、1903(明治36)年から、インドをはじめニューヨーク、英ケンブリッジで展覧会を開くと、これが大きな注目を浴びる。さらに翌年にかけて、ロンドン、パリといった西洋画の本場へと発表の場を広げ、高い評価を受けていった。ことに墨の濃淡を駆使した表現法は、東洋独自の世界観として絶賛される。
時まさに日露戦争が世界を揺るがせていた。台頭するアジアの大国日本への関心が、注目の背景にあったことが想像される一方、〝水戸っぽ〟の反骨心、難局にへこたれない姿勢が突破口を開いたともいえる。
こうして、洋画に圧されていた日本画の魅力が見直され、日露戦争勝利を受けた国粋主義の盛り上がりもあって、日本画は大きなブームとなっていった。07年、国が主導する文展(後の日展)審査員に就任した大観は、中央画壇をリードする存在となってゆく。戦後も続く画壇の大御所への歩みである。