2024年5月15日(水)

偉人の愛した一室

2023年9月23日

 戦後の日本が一番熱く燃えた日は、間違いなくこの日であろう。

 1960年6月18日、総理大臣岸信介は治安当局の退避勧告を退け、首相官邸に籠城したまま、日付が変わるのを悠然と待った。デモ隊と警官隊、夥しい数の右翼団体が国会周辺で衝突を繰り返す中、時計の針が深夜零時を指した。この瞬間、国論を二分し、暴力を伴う激しい闘争の中、国会で強行採決された新たな日米安保条約が自然承認された。基地を置きながら日本の防衛義務がなかった米国に対し、日本を守ることを約束させた画期的な条約であった。ここに、今日まで続く日本の安全保障体制、さらには対外関係の枠組みが確定した。岸は「私の為したことは歴史が判断する」そう言い遺し、翌月に退陣した。直後、暴徒の襲撃を受けて重傷を負う。

庭から見た岸邸。小川の流れる広々とした和風庭園は四季折々のさまざまな表情を見せる。リビングと食堂に設けられた大きな窓によって、室内からもこの庭を一望することができる 写真を拡大

 歴史の判断はまだ先に譲るとし、この人物に毀誉褒貶のあることは、多くの歴史学者に共通する。満州国の経済運営を担い、帰国後も軍部の強い支持の下、戦時経済を主導した大物官僚は、敗戦後、A級戦犯として巣鴨に収監された。しかし、東條英機とは距離を置く行動をとっていたことから、辛くも不起訴となって政界に復帰する。東西冷戦下、日本を反共の防波堤と位置付ける米国の方針のもと、その資金援助を受けて、岸は国政を主導してゆく。

 ただし、その姿勢は米国追従一辺倒ではなく、国益を優先し、アジア諸国との関係修築も志向した。あまり語られないが、国民皆保険など社会保障制度を整備し、高度成長期を下支えしたことも高く評価できる。

 一方で、いまに尾を引く自民党と統一教会との繫がりを作ったのも、この生粋の右派政治家だった。いまもって闇に包まれたままの疑獄事件も複数ある。動乱期には必須な清濁併せ呑む人物の典型であった。


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