戦後の日本が一番熱く燃えた日は、間違いなくこの日であろう。
1960年6月18日、総理大臣岸信介は治安当局の退避勧告を退け、首相官邸に籠城したまま、日付が変わるのを悠然と待った。デモ隊と警官隊、夥しい数の右翼団体が国会周辺で衝突を繰り返す中、時計の針が深夜零時を指した。この瞬間、国論を二分し、暴力を伴う激しい闘争の中、国会で強行採決された新たな日米安保条約が自然承認された。基地を置きながら日本の防衛義務がなかった米国に対し、日本を守ることを約束させた画期的な条約であった。ここに、今日まで続く日本の安全保障体制、さらには対外関係の枠組みが確定した。岸は「私の為したことは歴史が判断する」そう言い遺し、翌月に退陣した。直後、暴徒の襲撃を受けて重傷を負う。
歴史の判断はまだ先に譲るとし、この人物に毀誉褒貶のあることは、多くの歴史学者に共通する。満州国の経済運営を担い、帰国後も軍部の強い支持の下、戦時経済を主導した大物官僚は、敗戦後、A級戦犯として巣鴨に収監された。しかし、東條英機とは距離を置く行動をとっていたことから、辛くも不起訴となって政界に復帰する。東西冷戦下、日本を反共の防波堤と位置付ける米国の方針のもと、その資金援助を受けて、岸は国政を主導してゆく。
ただし、その姿勢は米国追従一辺倒ではなく、国益を優先し、アジア諸国との関係修築も志向した。あまり語られないが、国民皆保険など社会保障制度を整備し、高度成長期を下支えしたことも高く評価できる。
一方で、いまに尾を引く自民党と統一教会との繫がりを作ったのも、この生粋の右派政治家だった。いまもって闇に包まれたままの疑獄事件も複数ある。動乱期には必須な清濁併せ呑む人物の典型であった。