日本では考えられない訴訟経緯
WHO(世界保健機関)の下部組織であるIARC(国際がん研究機関)による発がん性分類は、あまり一般に理解されているとは言い難い。2023年には甘味料のアスパルテームがグループ2B(ヒトに対して発がん性がある可能性あり)に分類され、話題となったことを覚えている人も多いだろう。ここではその詳細には触れないが、この「発がん性」を巧みに利用した裁判で、巨額の賠償金の支払いが命じられたことをご存じだろうか。
米国の旧モンサント社(現在はドイツのバイエル社が買収)が開発した農薬であるグリホサートは、15年に「グループ2A」(ヒトに対しておそらく発がん性あり)に分類された。発がん性を考えるにおいて重要なのは、その物質をどれくらい体に取り込むかという「量」なのだが、いったん下した「グループ2A」というお墨付きは、グリホサートに反対する団体や弁護士にとっては、水戸黄門の印籠のような輝きをもって立ち現れた。
この「発がん性」という印籠をかざせば、グリホサートが人にがんを起こすという訴訟で勝てるとにらんだのだ。15年を境に米国では訴訟の嵐が吹き荒れることになった。
訴訟の経緯を知ると、日本では考えられないような驚きの連続である。なお、以下に出てくる「ラウンドアップ」という表記はグリホサートを主成分とする除草剤の製品名である。
まず、度肝を抜かれるのは、IARCの評価が発表された直後に米国の弁護士事務所が、ラウンドアップを使用したことがあるがん患者に対して、TVコマーシャルを使って訴訟に参加することを呼びかけたことだ。実際、筆者(唐木)は米国でこのTVコマーシャルを何度も見た。
翌年の16年10月、呼びかけに数万人が応募していた。このため裁判所の対応が困難になり、裁判所は21地区37件の提訴をまとめて取り扱うことを決定した。
2年後18年3月、裁判所の判断を助けるために、判事は原告、被告双方の推薦する科学者の意見を聞いた。その結果、原告側が主張する疫学調査を主な判断材料にして、がんとの関係は無視できないと判事は判断した。この時点で原告側の優勢が見えていた。
同じ18年6月、なんとモンサント社はドイツのバイエル社に買収され、訴訟はバイエル社が引き継いだ。ただバイエル社に代わっても形勢は変わらなかった。
そして、18年7月、双方の論争は重大な局面を迎えた。最初の裁判は、カリフォルニア州に住む末期がん患者のジョンソン氏が「校庭に散布したラウンドアップががんの原因」として訴えた裁判だった。原告ジョンソン氏は米国環境保護庁(EPA)の「発がん性はない」という判断は間違っていると主張した。
これに対し、被告バイエル社はIARCの「発がん性がある」という判断は間違っていると主張。原告は発がん性について当時のモンサント社が知っていたことを示す内部資料を示し、またEPAの担当者はモンサント社と不適切な関係があったのでEPAの判断は信用できないと主張した。