戦費調達に窮する徳川家康の家臣たちと、真宗寺院の資金をバックにした門徒金融業者との対立が三河一向一揆の原因のひとつと推定した前回「家康の「プアー」家臣2人と三河一向一揆のマネー的裏側」の続きを進めて行こう。
よく一揆の原因について「守護不入の特権(寺院の支配地内では領主の検断権・徴税権を認めない)を否定されたから」というのがあるが、それは大名が寺院の活動に介入しないという意味であり、そこには浄心のような商業活動も当然含まれる。
家康側の狼藉に怒った浄心は決起を訴え、本證寺をはじめとする岡崎近辺の浄土真宗寺院が一斉に蜂起して家康に敵対し、家康家臣団の多くの真宗門徒も家康に刃を向ける事態に陥ったのだ。門徒たちは講という、領主-家臣-領民という縦の組織とはまったく別の横のつながりによって構成されていたために、個人の意志というよりも組織ごと反・家康側に取り込まれたと表現できるだろう。まだまだ脆弱な領主権力よりも、明日の食い扶持の方が大事なのである。
敵対する者には徹底的に戦う姿勢
それにしても、家康はよくもまぁこんな大変な状況に自分を追い込んだものだ。家臣の多く、それも重臣の酒井忠尚や松平一族、三河守護家の吉良義昭やその一族の荒川義広までもが一揆側に加担したのだから、普通に考えれば岡崎松平家はひっくり返り、家康の命だってどうなるか分かったものではない。
もっともそうなることは充分予想できたはずで、決してドラマの様に家康が一向一揆に挙兵されて慌てたなんてことはあり得ないのである。
そもそも皆さんは家康ってどういうキャラだと思っておいでだろうか? 有名なのは「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の句で、「殺してしまえ」の信長・「鳴かせてみせよう」の秀吉に比べて言う事を聞かない敵でもゆっくりと改心するのを待ち、なんとなくいつの間にか言うことを聞かせるのが得意という印象を与えられる。
その上、「堪忍は無事長久の基(もとい)、怒りは敵と思え」なんていうのがその遺訓として伝わっているのだから、ますますもって融和第一で極力敵を作らないよう努めていたイイ人感が強い。
だが、である。しかし、である。
この三河一向一揆では家臣団が真っ二つに割れたにも関わらず家康は徹底的に一揆と戦った。実際の家康はどちらかというと「おまん(お前)、敵か味方かハッキリしやー!敵なら殲滅してやるじゃん!」というタイプだったのだ。ドラマでは鳥居忠吉老人が「謀反の疑いがある者はことごとく殺す」と家康に提案していたが、それは家康自身の思考法だった。
一度敵対したら最後、最後まで許さないというのが本当の家康流なのだ。この傾向は彼の晩年まで変わらず、関ヶ原の戦いでも半分の大名を敵として滅亡させ、大坂夏の陣でも豊臣家と関ヶ原の敗者の残党をひとまとめに処分してしまった。
関ヶ原直前には、捕虜として日本に抑留されていた朝鮮人の姜沆(カン・ハン)にさえ「家康は一度でも反目した相手は必ず死地に追いやる」と看破されている。
西三河の経済拠点から徳川家以外の勢力を排除して一人占めする!その為には半分を敵に回してもかまわない!
家康はそういう男だった。これでは戦いが長引くのも当たり前。
約束さえもご破算に
そんなお隣の様子を、尾張の織田信長もハラハラしながら眺めている。なにしろ信長は前年に家康と「織徳同盟(清洲同盟)」と呼ばれる攻守同盟を結んでいたばかりのだから(異説あり)。
ドラマでは「境川を国境として東の三河に手を出すな」と徳川家内は織田方を警戒したことになっていたが、信長にとっても「泥沼の三河一向一揆なんぞに足を突っ込むのは御免だわ」だったはず。彼には、いや織田家にはトラウマがあった。
先代の信秀が三河と美濃の2正面を敵に回し、斎藤道三に大敗を喫し三河でも小豆坂の戦いで敗れたうえに安祥城を失陥するなど散々な思いをしたことだ。小豆坂では4000の兵で6日間の軍事行動をおこなったから、必要となる兵糧米は1人5合/日なら120石、金額にして540万円(当初分の兵糧が自己負担だったかについては諸説あり)。