そのうえ戦いの結果は織田軍の負けでほぼ全滅だから、戦果は無い上に、前回に触れた矢作川~安祥の物流ラインが松平方のものになったのが、織田家に取っては痛かった。
一方の美濃でも19日間にわたって1万の兵力を率いて軍事行動したから、その兵糧代は4200万円以上と桁違いに大きい。しかも5000の将兵を討ち死にさせて戦果無し。こりゃたまらない。
美濃制圧を当面の目標としていた信長にとっては、家康を助けるために三河に兵を派遣するなどしていては、オヤジの二の舞になりかねないのである。一揆の泥沼に足をとられたうえにもし今川方が東から攻めてくれば、もはや美濃の併合など夢のまた夢だ。
だから信長は、家康に対して「一向一揆と和睦せよ」と勧告した。経済の要衝でもある長島(当時は伊勢と尾張の両属のような形だった)という身近に一向一揆勢力を抱えながら黙認していた信長の言うことでもあり、家康としてはこれをスルーする訳にはいかない。しぶしぶ「帰参した者は許す、主謀者の命も保証する、拠点の寺も以前のままとする」と約束し、何とか講和にもっていったのだった。
ところが家康は直後に寺々を破却するという手段に出た。一揆のよりどころを無くしてしまい、二度と団結して刃向かってくることの無いようにと考えてのことだろうが、これも後に大坂の陣で講和後に大坂城の本丸以外を破却してしまった事案とかぶって見える。
ともあれ、この一向一揆との戦いは三河の国主・吉良義昭やその族・荒川義広、家康家中の不安分子・酒井忠尚ら一揆側についた大物をことごとく亡命させる結果を呼び、西三河に家康の敵はいなくなった。この時点で20万石近くが完全に家康の管理下に入る。現代の価値で90億円。
「これで東に力を伸ばす土台が出来たわ」。実際、その後彼は2年足らずで東三河を手に入れた。
叙位任官への〝交渉術〟
三河一国29万石の大名に成長した家康。彼はここで奇抜な手に出る。叙位任官だ。
信長などは勝手に「上総守」を名乗って皇族にしか許されない官職だと知って慌てて「上総介」に改めるなどテキトーな部分があったが、家康はキチンと朝廷に申請して、公式な官位官職を獲得しようとした。一向一揆の後始末では「以前のままというのは元の原っぱに戻すということだ」なんていう詭弁で強引に敵対した寺々を破却してはみたものの、さすがに無理筋が過ぎて反発を買ってしまうと、三河一国の支配者としての大義名分を叙任で得るべく動きだしたのだ。
しかし、オフィシャルにとなると難しい問題が起こってくる。朝廷は「前例主義」だ、という点だ。今でも日本のお役所は前例主義で融通が利かないと批判されることが多いが、当時はその比では無い。何しろお公家さんは何かといえば御先祖の日記をひっくり返して前例を調べ、自分も子孫のために先例となるべく日記をしたためるのがメインの仕事のようなものだったのだから。
だから、岡崎次郎三郎松平元康(当時の家康の名乗り)などというどこの馬の骨か分からないような男に位階や官職をはいそうですかとくれてやる道理が無い。
さて弱った、と考え込んだ家康。斡旋を頼んでいた公家の近衛前久(関白)と吉田兼右に「うまくいったら、吉田様には馬を献じましょう。近衛様には毎年銭300貫文と馬1頭をお贈り致します」と申し入れた。