「生きるか死ぬか」の家康の「伊賀越え」は、1582(天正10)年6月2日未明の「本能寺の変」に対する戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「危機管理」の違いを知ることで、理解がより深まるだろう。
信長の奢りと油断
本能寺の変を研究しているのは歴史学者だけではない。天文学者や気象学者らも強い興味を示し、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが本部宛ての報告書に記した「本能寺の変の少し前に凶事を暗示するかのような大彗星が出現し、しかも安土城から遠くない場所に落下した」というのは事実で、「本能寺の変の前日は日食だったが、雨で観ることができなかった」ということまで明らかにしている。
未明とは午前3時から日の出前までをいうが、当日は新月で闇夜同然。その中を、松明を灯した明智光秀の軍勢が進軍していたが、老坂(おいのさか)を上って右へ行くはずだった進路を変え、京へ出る左の坂道を下り、桂川を渡って本能寺へと向かったのである。
信長は、前日の6月1日に茶会を本能寺で催し、大臣、公卿、高僧らを40数人も招いて収集した自慢の珍品の茶器を披露したが、その日は「日食」。大臣や公卿らが忌み嫌い、天皇は御簾(みす)の奥で謹慎するという特別な日だった。
信長は、新しいもの好きで意表を突くことが大好き、しかも神仏を信じていないから、天皇、公卿、僧侶らが忌避して謹慎する不吉な日をわざと選んだと筆者は推測しているが、信長の狙いは外れた。
西暦では1582年6月20日。すでに梅雨入りしており、その日も雨で、日食で客を驚かすことはできなかったのだ。誰もがじっとしていようとする特別な日だから万が一にも襲われるとの懸念は頭になく、そこを光秀につけ入られた。
催しは大好評のうちに終り、信長は大満足。深酒が効いて熟睡しきっていた。そして日が替わり、運命の本能寺の変が起こるのである。