2024年5月19日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年7月30日

商人たちまでの助けを受けた家康

 本能寺で信長が自決したとは露知らぬ家康は、和泉国の堺を出発するとき、家臣の本多忠勝に命じてそのことを信長に報告に向かわせた。忠勝が馬に乗って街道を進み、河内国の枚方(ひらかた)にさしかかると、前方から馬を走らせて来る茶屋四郎次郎と鉢合わせした。正午頃、「信長自刃」の知らせが安土城に届いてから2時間後のことである。

 「これは忠勝様、よいところでお会いしました。驚いてはいけませんぞ。京の本能寺で信長様が明智光秀に討たれました。それを徳川様に知らせに参るところなのです」

 茶屋は京都の豪商だが、家康が京を訪れたときは宿所にするほどの付き合いがあった。

 忠勝は引き返し、飯盛山あたりまで来ていた家康と出会って、光秀の謀反を報告した。家康と交流のある本願寺蓮如や亀屋栄任(京の呉服商)からも、都の状況を報せてきた。

 家康は、重臣を集めて緊急会議を開いた。「徳川四天王」の本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政以下、石川数正、大久保忠隣らのほか、信長が案内役に付けた長谷川秀一も加わった。

 その席上、家康が「知恩院で腹を切り、信長の後を追う」と取乱したとする説があるが、事実無根の虚説にすぎず、重臣らに告げたのは次のような〝家康流危機管理術〟だ。

 「光秀軍がひしめいている表街道は、避けて通らねばならぬ。飛んで火にいる夏の虫になる。どんなに険しい路であろうと、いかに農民一揆や落ち武者狩りの連中が手ぐすね引いて待ち構えていようと、よそ者が知らない間道を抜ける最短行路を踏破して岡崎まで逃走する。生きて岡崎にたどり着けるかどうは、案内者を誰にするかにかかっている」

 こうして家康は、難所とされた「伊賀越え」のルートを選んだのである。信長がお膳立てしてくれた観光旅行だから、随行している家臣団は従士25人、小姓12人にすぎず、鳥居元忠は病気になって京に残り、水野忠重は山中に潜んでいて殺害されたので、長谷川秀一を加えても総勢38人。あとは雑兵がいるばかり。数字は筆者調べで、『石川忠総留書(ただふさとめがき)』には33人の名が記されている。

 和泉国の堺から河内国の飯森、尊延寺と進み、山城国を草内、宇治田原とたどって、近江国の朝宮、多羅尾に向かい、そこで一泊して伊賀国の丸柱、柘植を通って伊勢国の鹿伏兎(かぶと)へ抜け、関から亀山、神戸を経て港のある白子までたどるという山深いルートで、しかも地元の人間でもたまにしか使わないような〝道なき道〟も多くあった。光秀の軍勢や信長の死を知って蜂起した農民一揆に襲われたら、ひとたまりもなかったが、行く先々でそれをはるかに上回る心強い護衛が次々とついて、家康の逃避行を支援した。

 信長が伊賀の住人を無差別に大量殺戮していることから、信長の盟友家康にも敵意をむき出しにする懸念が強かったが、伊賀を故郷とする服部半蔵が忍者に指示して抑え、茶屋四郎次郎は商人らしい発想で先回りして村民や野武士らを買収し、家康一行を襲撃しないように手を打った。宇治田原では信長に属していた山口城の城主山口秀康が一行を休憩させ、上柘植(かみつげ)では甲賀武士が護衛、伊勢湾に面した白子(しろこ)港では海運問屋の角屋(かどや)七郎次郎が船の手配を手伝い、三河国の大浜港まで無事に送り届けた。こうして家康は、命の危機を脱することができたのだ。

 三英傑の危機管理を改めてざっくりいうと、信長は「危機を脱しようと抵抗するも、多勢に無勢で力及ばず、自刃へと追い込まれ」、秀吉は「策を弄して和議を結んで危機を脱し、『主君の仇打ち』を大義名分に猪突猛進、棚ぼた式に天下を取り」、家康は「日頃から心を通わせてきた多くの者たちの〝恩返し的な支援と活躍〟で、〝あわやの窮地〟を脱して生き延びることができた」ということになろうか。

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