徳川家康ほど「辛抱」「我慢」「忍従」を貫いた戦国大名はいない。〝ひたすら耐えた人〟。それが家康である。そうした性格は、6歳から19歳までの「人質暮らし」のなかで培われたが、家康も人の子、我慢にも限度があったはず。
そう思えるのだが、家康が38歳だった1579(天正7)年に起きた「妻子殺害事件」にはそれが感じられないのである。
不思議としか言えない「嫁姑問題」
同事件は、「嫁姑問題」に端を発し、嫡男の嫁が姑と夫を実家の父、織田信長に書面で告発したことで大事(おおごと)に発展し、信長から求められるままに家康が「妻と息子を死なせた事件」だが、謎また謎の様相を呈している。
相手が天下人の最有力候補へと駆けのぼった信長とはいえ、合従連衡が激しい戦国の世にあって、21歳のときから軍事同盟を結んで共通の敵と戦ってきた仲なのだから、抵抗したり反論したりできたはず。家康はそうすることをせず、唯々諾々(いいだくだく)として信長の「妻子殺害命令」に従ったのは不可思議としかいえないのである。
問題は他にもある。殺された2人が死に値するほどのどんな重い罪を犯したというのか、あるいは、手紙に書かれた12箇条の告発内容は事実だったのかという疑問が残ることだ。
また、手紙を見せられ、それが事実かどうかと信長から問われた家康の重臣酒井忠次が、少しも否定せず、「12箇条のうち10箇条は事実」とすんなり認めたことも不自然である。筆者は、酒井は徳姫に頼まれてそうしたのではないかと疑っている。その理由は後述する。
「家康の台頭を怖れた信長が、娘の徳姫と結託して信康と築山殿を殺害させるという青写真を描いた」とする異説もある。NHK大河ドラマ「どうする家康」(6月11日放送)はこの説を採っているようで、信長が徳姫に「今後、最も恐るべき相手は徳川じゃ。この家の者をよおく見張れ。決して見逃すな」という場面があったが、想像の域を出ない。
このように、本事件は謎だらけで、真相は深い闇に包まれているのだ。