2024年12月6日(金)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年6月4日

 かつては「日の昇る国」といわれた日本も、気づけば、国力も企業の覇権力も失墜してしまったが、「賃上げ」という忘れられた言葉が蘇った機をとらえて、今こそ不死鳥のように華麗に鮮やかに再び舞い上がりたいものだ。そうするにはどうしたらよいのだろう。

(Alamy/アフロ)

 そんなことを筆者に考えさせたのは、「長篠の戦い」で見せた〝信長の発想力〟だった。

戦いを制した信長の「ソフトとハードの合体策」

 長篠の戦いは、信長・家康連合軍と武田軍の合戦で、長篠城(愛知県新城市)の西方2.5キロメートルのところにある高原「設楽原」(したらがはら)で、1575(天正3)年5月21日に行なわれた。今の暦でいうと6月29日、蒸し暑い季節だ。戦いは午前5時から午後3時まで10時間にわたる激戦となり、死者は織田・徳川軍6000余、武田軍1万余にのぼった。

 当時の年齢は、家康34歳、信長42歳、勝頼30歳で、秀吉も39歳で参戦していた。

 多少なりとも日本史を勉強した人であれば、長篠の戦いと聞くと、よほどのへそ曲がりでない限り、〝戦国の風雲児〟織田信長が〝無敵の騎馬軍団〟武田軍を撃破した独創的な戦術「三段構えの鉄砲」を想起するのではなかろうか。

 もう少し知識のある人は、「馬防柵」を連想したかもしれない。馬防柵とは、信長が、三段構えの鉄砲と併行して戦場に設置させ、馬の進行を阻止することで騎馬軍団が威力を発揮できないようにした防御用の木柵である。

 1万人いる銃撃手の中から選りすぐった3000人による「鉄砲連射と馬柵を組み合わせる」という常識破りの異次元の発想で、敵を殺戮する威力は数倍いや数十倍化したのである。

 当時の鉄砲は、単発式の火縄銃なので、弾丸を一発発射したら、また弾を込め、火縄に点火しなければならないという弱点があった。

 その弱点克服法として信長が発想したのは、それまで誰も思いつかなかった戦術だった。3000人もの鉄砲隊を3列横隊に分け、1列目の銃撃手が発射したら、火縄に火をつけて待ちかまえている2列目と入れ替わり、2列目が射撃したら、今度は3列目と入れ替わるという頭脳作戦を展開した。これが世に名高い「信長の三段構えの鉄砲隊」である。

 しかし、騎馬隊が一挙に襲ってきたら、たちまち鉄砲手はやられてしまう。


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