2024年6月25日(火)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年6月4日

 そこで信長は、馬を進めないようにする柵を設け、その内側に鉄砲隊を3列に並べるという戦術を用いたのだ。しかも信長は、「敵が間近に接近するまで撃つな」と命じていた。

 さらに、銃撃隊の背後には長槍隊を配備し、長々と横に伸びる馬防柵には30~50間(約54~90メートル)の間隔で人が出入りする門を設けてあり、右往左往する敵前に長槍隊が突入していって次々と血祭りにあげる算段だから、勝敗は戦う前に見えていた。

 筆者は当初、こんなアイデアは信長自身の発想ではなく、家臣の誰かが提案し、それを信長が採用したのではないかと考えていたが、あるときから信長自身の発想だと思うようになった。その理由を以下に記そう。

日本の経済力の一端を見せた信長

 種子島に鉄砲が伝来したのは、家康が生まれた翌年の1543(天文12)年のことで、そのとき信長は10歳だった。

 信長少年は、城主の子とは思えない小汚い格好をして馬に乗り、野山を駆けめぐるのが大好きな野生児で、好奇心が人一倍強く、新しもの好きで、鉄砲にも異常な関心を抱いた。

 いつの時代も、少年は、程度の差こそあれ、好奇心旺盛で、さまざまな分野にのめり込み、大人顔負けの専門知識や技能を持つ者も少なくない。思うに、信長もそういうマニアックなところがあったのではないか。

 だからこそ、南蛮渡来の先進文化やキリスト教など異国の宗教や先進の科学技術などに目を向けるだけでなく、それを取り入れたのだ。しかも信長の場合、日本の実情に合うように工夫している点に注目すべきである。これぞ、「和魂洋才」ではなかろうか。

 日本は、かつて家電製品や自動車などの輸出で世界に冠たる経済大国に躍進したが、その大きな特徴は、先進国の諸商品・諸技術を巧みに改良して、それを超える域の商品化を実現したことだったが、信長はその道の先駆者といえるかもしれない。画期的な「鉄船」の開発にしてもそうで、信長は〝ソフトとハードを合体させる名人〟だったのだ。

 信長にばかり目が行って見落とされがちだが、そういう〝異能の信長〟と21歳のときに軍事同盟を結んだ家康の「慧眼」(けいがん)ぶりにも注目しないといけない。

長篠の戦いのきっかけは家康

 真偽のほどは不明だが、長篠の戦いにまつわる興味深い説が古書に載っている。

 家康は、「勝頼と戦うには、わが軍だけでは無理だ」と信長に援軍を要請した。


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