家康の読みどおり、武田勝頼は、信濃・上野の兵を動かして長篠城を包囲した。時に1575年(天正3)年5月8日、これが長篠の戦いの発端である。三方ヶ原の戦いから3年後のことで、長篠城を守る兵はわずか500しかいなかった。
包囲されて次第に兵糧が減ってゆき、奥平信昌は窮地に追い込まれつつあるとき、家康がいた岡崎城では、大賀弥四郎という家康の家臣が勝頼に内通する事件が起きていた。
大賀は下賤の身で、家康の馬の口取りをしていて気に入られ、郡の代官にまで出世できたのに、その恩を忘れて家康に弓を引こうとしたのである。
大賀が立てた謀反作戦は、勝頼の軍隊を家康の軍隊だと偽って岡崎城を開門させて突入し、家康の嫡男である城主の信康を殺害するというもので、勝頼はその案に乗り、1万5000の大軍を率いて三河の作手(設楽郡)へ侵攻した。これが4月で、長篠の戦いは翌月である。
大賀の謀略は、密告によって露見しており、大賀は捕縛されて残虐刑を執行された。手足の指をすべて切断して生き埋めにし、通行人にノコギリで首を挽かせたのだ。
勝敗を分けた一人の家臣の「忠義」
勝頼を長篠の戦いに走らせた原因は、もう一つあった。英雄譚として今に語り継がれる鳥居勝商という武将の存在である。
長篠城の兵糧があと4、5日しかなくなったとき守将信昌は、自分が自決することで家臣の助命を願う道を選ぼうとしたが、一人の家臣が、それを諫め、自分が「急を告げる密使」となって城から脱出し、援軍を求める役割を果たしたいと名乗り出た。その家臣が勝商で、家康に会い事情を説明し、家康は援兵を送るよう指示した。
だが勝商は、役割を果たして帰る途中で武田軍に捕まる。勝頼は、勝商の忠義心に感心し、「援兵は来ないから、早く降服するように」といえば許してやると持ちかけた。勝商は承知し、城門の前に立つと、大声で「信長軍はすでに一宮まで来ている。家康軍は野田まで来た。3日以内にこの城へ到着するから、それまで耐えろ、我慢だ」とエールを送った。
それを聞いて籠城していた者たちの士気は一気に上がったが、勝商は激怒した勝頼の命で処刑された。長篠の戦いの火ぶたが切って落とされたのは、この4日後のことである。
450年近く前のこの逸話から筆者が思い浮かべたのは、いささか陳腐ながら《one for all, all for one》だが、読者諸兄の脳裏に浮かぶのはどんな言葉だろうか。