2024年4月30日(火)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年6月4日

 保有する領地の石高から弾き出される総兵数(1万石を250人として計算)は、信長の10万人に対し、家康は1万2000人しかなく、勝頼は3万3000人なのである。どう転んでも、家康だけでは勝頼に勝てないのだ。

 大名同士が直接会うのは最後の最後というのが当時の慣習だったので、家康の命を受けた家臣が信長の家臣に会って要件を告げ、それを主君に報告するという形で行なわれたが、二度、三度と使いをやっても、信長は援軍を承知しなかった。

 信長の冷ややかな態度に業を煮やした家康は、とんでもない策をめぐらせた。

 「信長殿がどうしても援軍を承知しない場合は、同盟を破棄して勝頼と手を結び、遠州を武田に与え、三州は徳川領とし、さらに勝頼の支援を得て織田領である尾州を調略して、わが領としたい」

 信長はあわてて援軍を送ったという。

 こんな説もあるにはあるが、大方の見るところ、長篠の戦いでの家康の存在は、信長の前にすっかり霞んでしまった感がある。

 だが、長篠の戦いのきっかけをつくったのは家康なのだ。家康が「長篠城」を攻め取ったことが武田勝頼を野戦に引っ張り込む原因となったのである。

 長篠の戦いで武田軍が潰滅した主原因は、父信玄に対する勝頼のコンプレックスと若さに起因する自信過剰にあった。勝頼は、高天神城の戦いに大勝したことで思い上がり、武田家の老臣らの憂慮を無視し、信長・家康同盟を軽く見てしまったのである。

〝奥三河の要衝〟長篠城をめぐる攻防

 長篠城は、築城以来今川氏の家臣菅沼氏の居城だったのを1571(元亀2)年に武田信玄が奪い取り、それを家康が4年後の7月に攻略してわがものとしたという経緯がある。

 家康は、長篠の戦いの3ヵ月前(1575〈天正3〉年2月)に、長篠城の重要性を家臣に説いている。

 「長篠城は、奥三河の要衝である。それを武田が奪還しようと狙っているので、城の守将を誰にするかの人選はきわめて重要である。ついては、奥平信昌に任せる」

 信昌は24歳。幼少期から家康に仕えており、家康の信頼が厚かった。

 奥平家は、最初の頃は今川家に属していたが、暗愚とされた氏真(義元の嫡男)が今川家を継ぐと家康に臣従した。三方ヶ原の戦いの後、信玄が重病となり、甲州へ帰ったのを知り、家康が信昌を誘ったのである。


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