2024年5月16日(木)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年6月18日

すべてを変えたのは「桶狭間の戦い」

 この事件の主役・準主役は、次の3人である。

徳姫(五徳) 信康の嫁。織田信長の長女
築山殿(瀬名) 姑の家康の正室。今川義元の姪・養女
信康 家康の嫡男

 嫁と姑の間には、結婚当初から一触即発の危険性があった。「信長が義元を『桶狭間の戦い』で殺したことで、足利将軍家につながる名家の今川家が滅んだ」からだ。

 信長の長女徳姫と家康の嫡男信康が生まれたのは、どちらも桶狭間の戦いの翌年で、同い年というのも運命的なものを感じさせる。徳姫と信康が結婚したのは、1567(永禄10年)年。家康26歳、信長34歳のときの出来事だ。

 家康と信長は1562(永禄5)年に「軍事同盟」を結び、裏切らない証として同い年の息子と娘を結婚させることにしたのだが、その時点では4歳と幼かったためにまず婚約し、11歳になったときに結婚させた。信康は家康が15歳のときに生まれた子で、徳姫は信長が23歳のときの子である。

 嫁姑の確執は、徳姫の出産を契機として一気に表面化した。徳姫が産んだのは女子2人(登久姫〈とくひめ〉、熊姫〈くまひめ〉)で、徳川家の跡取りとなる男子は生まれてこず、そのことを築山殿からチクチクと責められ、徳姫は屈辱感にさいなまれた。

 その手の問題が起こったら実家の母に相談するのが普通だが、徳姫の生母はこの世にはいなかった。彼女の母は豪商の娘で生駒吉乃(いこま・きつの)といい、信長の側室になって嫡男信忠、次男信雄(のぶかつ)を生んだが、徳姫が結婚する前年に39歳の若さで死んでおり、そこにも徳姫の不幸があった。

 徳姫の神経を逆なでしたのは、築山殿が信康に側室を持つように勧め、自分の眼鏡にかなった女をあてがったことだった。ここまではよくある話だが、選んだ相手が悪かった。岡崎城下に流れて来ていた武田家の元家臣の妾の娘だったのだ。

 しかも築山殿は、唐人の医師を近づけて不行跡に及んだだけでなく、その者を通じて武田勝頼に密書を送ったという、よからぬ噂もあった。築山殿の結髪係の女が密書を盗み見し、徳姫の侍女をしている妹に告げ口し、それが徳姫に伝わったとされている。それによると、勝頼の軍勢を岡崎に引き入れ、織田・徳川両家を滅ぼし、築山殿は甲州に入って小山田兵衛の妻になるという、まことしやかな内容だった。

 家康にも責任があった。岡崎城を信康に譲り、自身は浜松城に移ったが、築山殿を連れて行かず、岡崎城にとどめ置いたからだ。


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