2023年1月30日(月)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月1日

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城島明彦 (じょうじま・ あきひこ)

作家

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東宝を経て、ソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから、『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)、古典の現代語抄訳に『超約版 方丈記』(ウェッジ)がある。

 「若いときの苦労は買ってでもせよ」という処世訓がある。

 「艱(かん)難(なん)汝を玉にす」という諺もあるが、家康の場合、苦労や艱難の限度をはるかに超えていた。何しろ、3歳で生母と離別させられ、6歳のときには今川家の人質になるはずが、騙されて織田家に金で売り飛ばされて人質となり、2年後には捕虜交換で今川家の人質になるという信じられないような目にも遭っているのだ。

徳川家康しかみ像(三木光/アフロ)

 家康の人質生活は、織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を殺害したことで解放される19歳まで足かけ13年間も続いたのだから、血で血を洗う戦国の世にあっても、そこまで艱難辛苦した武将は家康ぐらいしか見当たらない。

 家康は、信長が奇襲をかけて義元の首を取った〝桶狭間〟(実際の戦闘現場はその手前の「田楽狭間(でんがくはざま)」)には居合わせなかった。桶狭間の戦いの前哨戦「大高城の兵糧入れ」に今川方の切り込み隊長として送り込まれていたからだが、その話は次回に述べるので、ここでは触れない。

 人質生活は「死と隣り合わせ」だ。人質を取られた側が反旗を翻したりすれば、たちまち「見せしめ」のために殺されてしまうのである。

 たとえば、明智光秀が信長に命じられて八上城(やかみじょう)(兵庫県丹波篠山(たんばさやま)市)を攻めたときのこと。籠城する城主、波多野秀治(はたの・ひではる)は、光秀に「降伏すれば命を助ける」といわれて降伏した。その言葉が嘘でない証拠に光秀は、母を人質として差し出した。

 ところが信長は、降伏した秀治を殺すのである。裏切られたと知って怒った秀治の家臣らは、光秀の母を処刑したのだった。この事件が本能寺の変を起こす大きなきっかけとなったのではないかという歴史家は決して少なくない。

 このように、戦国時代の人質は、常に死と向き合っていた。

 家康は、そういう境遇に幼少期から足かけ13年もの長きにわたって置かれていたのだから、人格形成に多大な影響を及ぼさないわけがなかった。

 「なくて七癖」というが、家康には妙な癖が2つあった。1つは爪を噛む癖で、もう1つは戦(いくさ)などで窮地に立たされると鞍壺(くらつぼ)を拳で叩きまくる癖だ。

 子どもの頃、爪を噛んで母親に叱られた経験のある読者諸兄もおられようが、そういう癖は大きくなれば自然と治るのが普通だが、家康は大人になっても改まらなかった。

 爪を噛むのは欲求不満の現われである。筆者自身も小学生低学年の一時期、爪を噛んでいたが、あとから考えると、心に鬱屈したものを抱え込んで、くよくよしたり、いらいらしするときに爪を噛んでいたようだ。

 家康の性格としてよく知られているのは、①人並外れた忍耐強さ、②驚くほど愚直、③石橋を叩いても渡らない慎重さだが、これらは抑圧された人質生活のなかで育まれた。


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