資金力こそ信用力!ゼニが欲しけりゃ味方につけ!とばかりにくり広げられた、であろう織田・徳川連合vs武田の買収合戦。金銭が飛び交う空中マネーの陣というわけだが、戦国時代、最終的にはリアルのバトルで勝負が決まるのである。それが「長篠の戦い」本番というわけ。
実は武田軍も鉄砲を揃えていた
武田勝頼は天正3年(1575年)4月21日に出陣、5月6日参加全軍が三河国に集結、その兵数は、一説に1万5000。この軍勢の内訳について、ちょっと考えてみたい。
俗に「武田騎馬軍団」などと呼ばれる武田軍だが、この当時の構成比率は28人中で鉄砲:弓:槍(長柄槍・持ち槍):馬=5:2:15:3。意外と馬の比率は高くないでしょ?
さかのぼって弘治元年(1555年)の第二次川中島合戦で武田信玄は旭山城という拠点に援軍3000人を派遣したが、同時に300丁の鉄砲も送り込んでいる。つまり鉄砲の装備率は10%。これから見ると、長篠合戦の際には10%から18%弱とかなり鉄砲が重視されるようになっていたことがわかる。
これを適用すると、三河に侵攻した武田軍の鉄砲数は約2700挺。どうですか、この数字!いろいろと異説はあるけれども、織田・徳川連合軍が長篠合戦に投入した鉄砲の数は3500挺といわれ「鉄砲を大量使用した信長の先進性が旧態依然の武田軍団を破った!」なんてお題目が今でも叫ばれたりするものの、兵数から考えれば武田軍だって頑張って鉄砲を揃えて、五分とは言わないまでもそこそこ対抗できるレベルまで来ていたことがわかる。
〝信長ハイウェイ〟で搬送された鉄砲
ところで、織田・徳川連合軍の鉄砲は、信長が大和の筒井順慶の手元の50挺、丹後の細川藤孝にも射撃手である鉄砲衆も込みで提供を求め、この数量を確保したもの。
最後の最後まで鉄砲数の優位性を確保しようと努めたのだ。筒井順慶が鉄砲衆を三河へ向かわせたのは5月17日で、設楽原で決戦が行われたのは21日。当時の鉄砲というのはいろいろな口径のものがあり、個別に銃弾を用意しなければならないから、おそらく筒井兵たちは重い銃だけでなく弾丸も火薬も背負い込んで出発したはずだ(実際、細川家も銃兵に弾薬を持たせて派遣した)。それでもおそらく、決戦の前日まで、4日以内の旅程で設楽原に到着していた。