2024年2月25日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年11月30日

弾薬の質と量で負けた武田軍

 武田軍は織田・徳川連合軍に比肩するほどの鉄砲を投入していたはずなのに、いったいぜんたい何故「鉄砲で散々に撃ちかける」と織田・徳川連合軍サイドの鉄砲ばっかりが脚光を浴びることになってしまったのだろう?

 これじゃまるで武田軍には鉄砲が無かったみたいじゃないか。

 成瀬家所蔵の『長篠合戦図屏風』(同系統の図屏風の中で最も古い。江戸時代前期頃の成立か)を見ても、武田軍の鉄砲は、えーと、4挺しか描かれていない。最前線で武者が抱える2挺、同じく最前線で持ち主が戦死して地面に投げ出された1挺、最前線に向かう鉄砲足軽が抱える1挺。

 これはいったい何を意味するのか。当時の人も、半世紀後の人も、武田軍の鉄砲についてはうっすらとしか認識しなかったのはなぜか。

 答えはひとつ。武田軍の鉄砲の存在感が無かったからだ。ではなぜ存在感が無かったか。それは、質と量の両面で武田軍の鉄砲に問題があったから。と言っても、武田軍の鉄砲の数自体が織田・徳川連合軍に匹敵するものだったことは上で試算できている。問題は、弾薬だった。

悪銭で弾薬という状況

 今から4年前、雑誌連載の頃の「マネー術」で紹介した史料に、ふたたびご登場いただこう。永禄7年(1564年)の武田家書状だ。第五次川中島合戦の直後に、家臣が領内の神社に「鉄砲玉の御用に」と悪銭の納入を命じたものだ。

 悪銭とは鐚銭(びたせん。劣化して質の悪い銅貨)のことで、武田家が銅を弾薬に使用していたことがわかる。黄金で買い上げる、とも言っているから、よほど銅が不足していたのだろう。

 だがしかし。鉄砲の弾丸ってそういうものなの?任侠映画なんかでよく「鉛玉を食らわせてやる!」みたいなセリフがあるけど、鉄砲玉って鉛製、というイメージ、あるよね。

 鉛は柔らかくて溶解温度が低く、製造がしやすいメリットがあるし、何よりその柔らかさは人体に命中した際に変形してよりダメージを与えやすい。それに、鉛は中毒性もあってその面でも人体に危険だ。

 いろいろな優位性の結果、鉛製の銃弾が現在に至ってもデファクト・スタンダードになっているのだが、よほど鉛不足の場合は陶製や鉄製、それに銅製の銃弾も製造され、実戦で使われた。なけなしのカナ山鉛鉱も奪われ、黄金の精錬にも支障を来すようになった武田家は、さらに銅製弾にシフトする。

 だが、その銅製の鉄砲玉すらも、武田領内での銅の不足によって十分に製造できなかったことは上掲の書状によって簡単に推測できる。それから11年経って、織田家が着々と覇権を強めていく中ではさらに銅も鉛も領内への輸入は困難になり、一層銃弾の備蓄は乏しくなっていく。

「火薬を自前で用意せよ」

 そして、銃弾とともに鉄砲には不可欠の火薬も「支障を来す」程度では済まない入手難が続いた。長篠合戦の2年前にも、武田家では「火薬は支給するのが当然だが、最近の欠乏状況により、個々の知行に応じて火薬を自前で用意せよ」と軍事規定を発している。

 火薬は硝石(しょうせき)から作られるのだが、日本では採掘できないので海外からの輸入が頼り。その部分も中央を握る信長が押さえているから、武田領にはなかなか入って来ない。家臣にとっても「殿様の手に入らんものをおらんとうで支度せよとはぶんでもねえ!(殿様でも入手できないものを私たちに準備せよとは、とんでもない)」ってなものだ。

 よって、火薬についてもその後さらに織田家の締め付けが厳しくなっていたことを考慮すると、とても満足な量が確保できていたとは考えられない。


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