橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年10月21日

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 というわけで、前回「織田信長・長篠の戦い前章 大合戦を呼んだ武田信玄の〝終活〟」をまるまる長篠の戦いに至る武田家の事情「信玄の危機管理と終活」に当てて、お待たせしました、今回がようやく本題の前編だ。

長篠城本丸跡(筆者撮影)

信長の贈り物

 父・武田信玄の死の翌年、跡を継いだ武田勝頼は徳川家康の遠江高天神城を包囲し、猛攻の末これを落とした。家康から援軍の要請を受けていた織田信長は結局間に合わなかったのだが、徳川家の東三河における拠点・吉田城で家康に面談した信長は、家臣に命じてある荷物を広間に運び込ませた。

「ドサッ!!」

とそのモノが座敷に大きく重い音をたてて降ろされると、家康以下の徳川家面々は

「何ぞ…?」

といぶかりながら眺めていたが、荷物が開けられると、一座はあっと息を呑んだ。

 荷物の中にはキラキラと眩しく輝く黄金が詰め込まれていたのだ。史料によって「黄金皮袋二つ」「黄金一駄」とあるが、「一駄」の「駄」は馬がふたつの荷を背に振り分けて運ぶのをひとつの単位にしたものなので、両方の意味は同じ。

 なら、1駄=馬1頭が運ぶ荷の重さはどれぐらいのものなのか。ちょっと時代が後になるのだが、関ヶ原の戦いの翌々年に家康が定めた伝馬(公用の荷を輸送するため馬)に関する規定を見てみよう。

 それによれば、公用で地元負担となる伝馬が背負う荷物の重量の上限は32貫目(120キログラム)となっているが、一方で伝馬の役目が無い合間に一般の輸送を有料で請け負う場合は40貫目(150キログラム)まで積んで良い、ということになっている。

 ちょっと脱線すると、この一般輸送の料金が一駄あたりの賃料=「駄賃」と呼ばれ、現在もよく子供に向けて使われる「お駄賃」の語源となった。

 駄賃ついでに書いておくと、例えば保土ケ谷~藤沢間17~18キロメートルの輸送金額は1里あたり永楽銭で4文程度。当時の米価から換算すると22円/キロメートルといったところか。

 現代の我々が荷物を抱えて電車に乗り込んでも、保土ケ谷から藤沢までは300円。スピードは速くなったとはいうものの、同じような金額を払わされている。

 実に世知辛いのである。

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