「兵糧代にせよ」と釘を刺す
閑話休題。
上掲の通り、駄馬が背負うふたつでワンセットの荷の重さの上限は40貫目=150キログラムだから、ふたつの荷の片方は75キログラムになる。戦国~江戸時代、人々は男女問わず60キログラムの米俵を持ち運んでいたから、それより重い75キログラムの皮袋なら2人で運ぶというのは計算に合う。
で、仮に皮袋1つが75キログラムだったとすると、その黄金は小判にして4200枚(両)、おおよそ4億6200万円となる。ふたつ合わせて実に9億3000万円近く!(基準によって金額は変動する)
これだけのマネーをドサッと贈られた徳川家が、家康以下「前代未聞だ!」と仰天したのも無理はない。
この年、高天神城があった遠江国(現在の静岡県西部)ではところどころの土地で農作物が不作だったうえに高天神の土地が武田家の手に落ちてしまった。
そうなると、家康の手元に集まる年貢米は予定より少なくなってしまったわけだが、仮に家康の直轄領が遠江国25万5000石のうち3割あったとしてもその収穫高は34億円、年貢として取れるのは14億円。
いくら一部で不作でも、9億円以上もらえるのであればマイナス分にお釣りがくるような金額だ。
だがしかし、ここで「うひょ~っ!」と喜んではならない。信長はたしかに「遠江で不作が発生しているから」と言葉を添えて大枚9億円以上を進呈してくれたわけだが、同時にこうも言っている。
「兵糧代にせよ」
そう、あくまでも軍事用の備蓄米として使えよ、と釘を刺したのだ。自由気ままに遊興や趣味に投じることは禁止された「使途限定資金」という訳。使途不明金なんか出した日には、国税のマルサより怖い信長さまが黙っていない。
大買収作戦
いうまでもなく、家康もそんなことは承知の上。ごく近い将来に必ず起こるだろう長篠方面の争奪戦に備えて、その資金が投入されることになる。
黄金の皮袋の一件から5カ月後、家康はある人物に「扶助のため土地を与える」と証文を渡すのだが、その相手の人物の名は、休賀斎。剣聖・上泉信綱から学び、遠江国は浜松の北、文字どおり山の奥にある奥山という土地で修行して奥山流を創始した男だ。
このため奥山公重(きみしげ)とも名乗っている。家康はこの剣客の秘伝を学ぶ代償として報酬を土地で払ったのだ。その後、家康は休賀斎をしばしば召して剣の指南をさせたという。