2024年2月29日(木)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年10月21日

 この土地の広さ=早い話が収入額の大きさ、史料ではそこまでの言及は無く不明なのだが、江戸時代も末近くのころ、普通の知行取り武士の子の道場通いにも月謝が銀2匁、7日間の集中修行(現在の予備校の夏季集中講座のような感じを想像していただきたい)に70匁以上の謝礼金を用意しなければならなかった。現在の価値で考えると15万円以上、基準によっては45万円にも上る金額だ。

 もちろん、それをそのまま300年も前の休賀斎に適用することはできないが、逆に三河・遠江2カ国の大名・徳川家としてはあまりケチでもいられない(家康自身はケチで有名だけどね)。「御台所御守役」という名目でけっこうな待遇の終身雇用契約を結んだということだろう。

家康がわざわざ剣術を学んだワケ

 問題なのは、この休賀斎の本当の名字が「奥平」だったこと。そう、彼は長篠の戦いの立役者となる奥平家の一族なのだ。(ちなみにこの休賀斎の子・公唯(きみただ)は奥平家に200石で出仕しているから、父の休賀斎が家康から貰っていた知行はそれ以上だったんだろうなぁ、と思う。年収1000万円以上、という感覚か。手取りじゃなく、ね。)

 奥平氏はこの時、作手亀山城主(長篠の西)だったが、3カ月後に長篠城主となる。

 ここに家康がなぜ武田家との決戦が迫るこの時期に剣術の練習をしているヒマがあったのか、という謎解きの鍵がある。

 家康に言わせれば、

「いや、たしかにわしは剣術や鉄砲、馬術と体を動かす運動の修練は好きだったが、実は休賀斎に禄を与えたのは他に目的があったんじゃ」

と声を低めて告白するのではないか。

 御台所御守役というのは、徳川家の奥向きに出入りする役職。要するに男性である徳川家臣たちの目にはあまり触れることなく、また互いの地位の差による儀礼に邪魔されることもなく、奥御殿で家康と近く言葉を交わすことができる立場だ。

 「いやいや、大名の奥向きって、男子禁制なんじゃないの?江戸時代の大奥なんて男子完全禁制だよ?戦国時代だって、そんな簡単にむくつけき武芸者がうろつけるわけないじゃん」
と思われるかも知れないが、そのための「御守役(護衛役)であり、そもそも江戸城大奥だって、裏ではツアーが組まれて裕福なら町人レベルでも二の丸大奥を見物しているぐらいだから、それほど構えて考える必要もないのである。

飛び交う情報と札束

 そのうえ家康の剣術指南役ということで、自然にふたりきりになる機会は多い。

 奥平家は信玄の死の直後から家康に誼(よしみ)を通じて情報を伝えてきたというが、その奥平家との秘密の連絡に最適任だと家康は休賀斎を招いたのだと思う。ともかく徳川家と奥平家、どちらにも自然に行き来できて人脈もある休賀斎だから、高い報酬を与えるのも惜しくはない。

 きっとその他にも、休賀斎を通じて家康から奥平家へと密かに流れた資金は多額に及んだのではないか。そして、そのお金を携えて長篠へ乗り込んだ奥平家がさらに周辺の国衆たちへ。というよりもむしろそうしない方が不自然で、現代風に言うならば札束が飛び交う買収作戦、といった趣きだ。

 実際、このあと家康の息子・信康が守る岡崎では、重臣の大賀弥四郎の寝返りが発覚して処分されるという事件が発生している。こちらも買収マネーの空中戦が展開していたのだろう。

 長篠の戦いの2カ月前になると、信長はいよいよ来るべきときが来るという感じで家康に2000俵の兵糧米を贈り、家康はそのうち300俵を長篠城へ運び入れさせた。その比率、15%。これをそのまま適用すれば、奥平氏に投入された信長マネーは1億4000万円にのぼる計算になる。

 信長からのプレゼントマネー9億円は長篠の戦いに備えての「生きたマネー」となったのだ。


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