「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり(戦わずして勝つ。これが最善)」と教えたのは孫子。「最小のリスクで資産を最大化せよ」と説いたのは著名投資家のウォーレン・バフェットの師匠にあたるフィリップ・A・フィッシャー。支出はできる限り少なく、利益はできる限り多く。これこそ成功の鉄則だ。現代の経営者や投資家なら資金が尽きればマーケットから退場すれば良いだけの話だが、戦国時代には命に関わってくるから大変だ。
前回の『〝マネーの申し子〟織田信長が貧乏だった理由』で、織田信長が父・信秀の代からの逆風の中でスタートしたことを述べた。それは大変なハンディだったようで、信秀の死の前後の状況は「尾張は大混乱」(『定光寺年代記』)・「いよいよ正体が無い(完全に機能停止)」(『天文日記』)と、まさに「最悪」だ。
マネー面で見ても尾張は国中がかなり追い詰められていたらしい。
なぜかというと、美濃国との国境に近い河野という土地(現在の愛知県江南市河野ほか)には浄土真宗の門徒が集まる惣道場があって本願寺の重要な拠点となっていたのだが、天文20年(1551年)10月には本山の大坂本願寺での当番奉仕に誰も上って来ず、また「頭銭」と呼ばれる負担金も払えないという状態となり、本願寺も「言語に絶える次第」と嘆くしかなくなっている。
これだけなら一時的な事情と我慢することもできるのだろうが、信秀の死から1年6カ月経った天文21年10月になってもこの状態は改善しない。河野惣道場は毎年の灯明料(お布施)など500疋(ひき)を400疋に、頭銭などに至っては1010疋を650疋にまけてもらっている。
この650疋、内訳は美濃で集金した分が350疋、尾張の分が250疋というから、尾張が美濃より困窮していたのは間違いない。その理由については木曽川の水害で河野に餓死者が多く出たからというが、銭の流通量が少なくなり経済活動が停滞するありさまが目の前に浮かんでくるようではないか。本願寺側から次の年の見込みを聞かれた河野惣道場は、「来年も650疋しか出せません」と回答している。
100疋=1貫文(1000文)で、現在の価値に換算してざっと7万円。1010疋から650疋にまけてもらった分の360疋は現在の価値に換算してざっと25万円。年間の献金のうち、25万円あまりさえ調達しかねるほどに、尾張、ひいては織田家の経済状況は悪かったのだ。