2022年12月8日(木)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年6月19日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

冷徹な信長の計算

清洲城跡に建つ模擬天守

 こうして「最少の投資」で敵方の領地を次々と制圧し、その土地で複雑にからみあった権利関係を一切破棄して自分の直轄領に組み込んだり、あるいは700~800の「甍を並べる」侍たちに分け与えるという「最大の利益」を確保できのだから、周囲をすべて敵に回して孤立したというのも、あるいは初めから信長の計算のうちに入っていたのかも知れない。

 だが、信長は敵だけでなく味方にも大胆で残酷なメスをふるった。清洲城乗っ取りの立役者で、その報酬として那古野城を与えられていた叔父の信光が不慮の死を遂げたのも、背後で信長が糸をひいていた可能性が高い。

 そして極め付けは平手政秀の死だ。政秀は信長の傅役(もりやく)であり後見人であり家老でもあるという重要人物だったが、天文22年(1553年)に自刃している。原因は嫡男の五郎右衛門(長政?)が信長からねだられた馬を譲らなかったからとも、反信長派との板挟みに悩んだ結果とも言われているが、どうもそんな単純な話ではなさそうなのだ。

 政秀の死の直後、五郎右衛門は信長の勘気をこうむって赦免されず、平手家では48人の家臣が切腹して果てたという(『尾張徇行記』『田幡志』)。異常な自殺者数だ。これは、豊かな財力を備えていた平手一族に対して信長が圧力をかけた結果だったのだろう。実際、平手氏の系図によれば、政秀が荒子・小木・志賀と3カ城の主だったのに対して、子(次男?)の久秀の代になると小木城しか領していない。荒子は没収されて前田家(利家の父・利昌)に還付され、志賀は取りあげられてしまったようだ(『尾張群書系図部集』)。

 江戸時代の志賀は2000石の収穫があったようだから、信長の時代にも1000石程度の米生産高は見込めたはずだ(現在の価値で1年あたりの実収入が1500万円程度か)。

 米だけの話ではない。志賀はかつて公家の山科言継が政秀を訪ねたときに「種々造作驚目候了、数奇之座敷一段也(いろいろな」と仰天したほど豪華な屋敷を建てることができた裕福な土地だ。政秀だけでなく家臣たち48人まで死に追いやってまで、信長はその財力を直接掌握しようとしたのだ。

 敵味方の区別なく、すべてのリソースを自分に集めようとした信長。そのやり方は、のちに彼が京を制してからも変わらず、基本的に織田家は新たに従った者の権利を徐々に取りあげてやがて完全に使い捨てる傾向がある。蒲生氏郷が「見所がある」と評価されて取り立てられたことは珍しい例で、降伏すら許さず殲滅してその領地を制圧することが多かった。羽柴秀吉が宇喜多直家の降参を仲介した際に「事前に相談もせんといて勝手なことをしてまうとは、とんだ曲事(くせごと)だわ!」と激怒して秀吉を追い返したエピソードは有名だ。

 結局このやり方が信長の運命を決めたとも言えるのだが、それはまだかなり先の話。若き日の信長が逆風の中で最大限の成長を遂げるためには、このやり方しかなかった。

 こうして、清洲城を本拠地としてひたすら資本金を増やし、力を蓄えていった信長。それは功を奏し、桶狭間の戦いでは今川義元を倒すことに成功する。やがて彼は美濃を併合し、銭貨による流通決済の再興と完成を実現すべく京へ上ることになる。

 次回はその過程について、兵力と作戦日程とはまた違う面から、桶狭間の戦いに至る信長のマネー術を考えてみたいと思う。

  
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