2022年12月5日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年6月19日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

小兵力・短期決戦で危機を乗り越えろ!

 そんなわけだから、信長には「一切の費えを惜しみながら織田家を立て直す、それししかにゃーで」より他はなかった。

 天文21年(1552年)4月。信長は信秀の死で今川義元に寝返った鳴海の山口教継との「赤塚の戦い」で800人を率いて出陣。倍以上の敵を相手に数時間戦って引き分け帰城した。8月の萱津(かやづ)の戦いでも数時間戦って勝利。

 天文23年(1554年)1月の村木砦(知多半島東部の付け根の北方)攻めでは大風の中で熱田湊から知多半島への渡海を強行。24日に村木砦を襲った。犠牲をいとわず猛攻する信長は1日で城を降伏させ、翌日には別の城のまわりを焼き討ちして那古野城に凱旋している。

 さて、これらの合戦に見られる共通項は何だろう?まず、すべて「短期決戦」だったこと。勝てば良し、勝てなくても1日で戦闘を切り上げ撤収。これは誰にでもすぐ分かるだろう。

 そして二つ目。それは兵力だ。赤塚の戦いで800人、萱津の戦いは弟・信勝の家老、柴田勝家らも協力したので信長単独の兵力ではないから除外。村木砦の戦いは、信長の留守中に那古野城を襲うかもしれない清洲織田家を牽制するために美濃から駆け付けた斎藤道三の重臣・安藤守就の兵力が公称1000人。ということは、城に若干の守備兵を残して出陣した信長の兵力はそれと同等以下、おそらくこれも800人程度だったろう。

 この800人という数字が実に興味深い。信長が斎藤道三と対面したことで有名な「聖徳寺の会見」がおこなわれたのは天文22年(1553年)と、これらの戦いの合間の話なのだが、ここで信長が連れていったのが「御伴(供)衆七、八百」。他に槍足軽500人、弓・鉄砲足軽が500人と『信長公記』にあるが、これは威儀をととのえるため臨時に駆り集められた農民たちだっただろう。御供衆=直属の家来、従者の700~800人というのがこの時点での信長の戦力のほぼすべてと言える。

 『信長公記』はこれを「孤立してまわりがみんな敵になっても、屈強な武勇の侍衆7、800人が信長の下に居並んでいたから、相手に一度も不覚をとることは無かった」と説明しているけれど、逆に言えば信長はそれだけの数を頼みに命のやりとりの場へ挑んでいたわけだ。800人という数字は、まさに信長のパワー・ナンバーだった。

最少の投資を実現した信長の戦略

 ともかく、短期決戦と小兵力。この2本柱こそが「初期型信長」の身上!

 なにしろ合戦にはお金がかかる。足軽用に刀、弓矢、槍、鉄砲を1セット揃えるには現在の価値でだいたい130万円(『戦国大名の経済学』川戸貴史著、講談社、拙著『戦国武将に学ぶ必勝マネー術』講談社)を必要とした。

 そのうえ、戦いが長引いて4日以上に及べば、足軽ひとりあたり1日6合の米のほか塩・味噌を配給しなければならない。1コイン、500円に満たないほどのコストだが、これも人数が増えるとバカにならないし、何よりも戦場に持っていくにも作業員と馬などの費用が上乗せされてくる。

 それよりなにより、清洲城の外で留守番をしてくれている安藤守就以下の美濃兵1000人に対しても、腰兵糧(自弁の食事)3日分を超えた4日目以降からは城から兵糧を提供しなければならなかったはずだから、1日当たり30万円ぐらいが加算される。実際には4日オーバーしたから120万円。これも当時の信長には過大な負担だった。

 できるだけ少ない人数と日数で決着をつける。信長はそれを徹底的におこなわなければ、戦国の生き残りレースに参加できなかったのだ。

 村木砦の戦いでの信長の動き方を安藤守就から報告された斎藤道三は「恐るべきやつ。隣人にするのはイヤだな」と怖気をふるったというエピソードが残されているが、実はこの頃の信長には慎重に長期戦で相手を弱らせていくという経済的な余裕が無かっただけなのでは、というと道三はどんな顔をするだろうか?

 もちろん劣る兵力で優勢な敵に打ち勝つためには圧倒的な武勇が必要だが、その点信長も、彼に従う前田利家・佐々成政ら荒小姓たちはじめ800人の侍衆も、力にまったく不足はない。傾(かぶ)いた形(なり)で敵に突入して暴れまくれば、敵はことごとく崩れ立ち逃げ惑った。

 敵の立場になって考えれば、それなら数の優位を背景にしてじっくり長期戦で臨めば勝ち目も見えて来そうなものだ。しかしそうしなかったのは単に敵がお粗末だったのではなく、同じように経済的に苦しかったのだ。この傾向はそれ以降も変わらない。弘治2年(1556年)8月「稲生(いのう)の戦い」でも敵勢1700人に対し信長の兵力は囮(おとり)役の砦を守る部下100人程度を加えても800人に過ぎなかったが、巧みな戦術と信長の勇猛果敢な働きによって1日で決着がついた。

 そうやって最少の投資によるハイリスク戦略が成功すれば、最大の利益=ハイリターンが返ってくるものだ。弘治元年(1555年)2月、信長はこんな命令を発している。

 「星崎根上の内で、今度鳴海に味方した輩の家督と財産については、すべて欠所処分とするもんで、厳しくチェックしてちょ!」

 星崎と根上は鳴海城の西隣りで、山口教継による調略が進行していたのだろう。鳴海方に付いた者たちの身代をぜんぶ没収すると宣言してそのシビアな監視を指示したのだ。それは牽制、警告のためでもあったが、彼は有言実行の男。稲生の戦い後には「今度の弟・信勝(信行)の謀反により」と関係者の財産を没収した。断固たる大規模整理だが、果断な信長のことだから眉毛も動かさずに粛々と実行していったのだろう。

 同じ頃清洲城を謀略で乗っ取ったことに至っては、ノーリスク・ハイリターンだ。

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