2024年4月20日(土)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年11月30日

 順慶の筒井城から岐阜を経て設楽原に至る行程は270㌔程度。江戸時代の健康な成人男性が歩いた距離は日中の40㌔程度、街道の宿場を未明に出立して日没まで到着できる次の宿場までというから、筒井兵が1日あたり67.5㌔を移動したというのは、驚嘆すべき速度という他ない。なにしろ、電撃的な撤退作戦として史上有名な秀吉の「中国大返し」でさえ、最速で1日50㌔平均なのだから。一体全体、どうやってそんな強行軍を実現したのだろう?

 考えられるのはひとつ。伝馬の利用だ。馬に人や荷物を載せてリレーさせれば、兵たちは体力を消耗することなく1日あたりの距離も大きく伸ばすことができる。

 信長と家康の伝馬政策に関する最古の史料はこの時期から6年後の天正9年(1581年)のものだが、長篠合戦に際しては戦時対応として大規模な伝馬体制が敷かれたとしか考えられない。

 仮に50人の兵と銃、弾薬を60頭の馬でリレーしたとすると、前回「織田信長が図った長篠の戦いに向けた大買収作戦」で紹介した伝馬の料金に当てはめた場合36万円程度となる。各地から駆り出された銃兵たちは、この「動く歩道」に乗って戦場へ送り込まれたのではないだろうか。

 そしてこの伝馬システムは、言うまでもなく信長が整備した「ハイウェイ」で稼働した。少なくとも尾張までは。交通インフラへの投資が、軍事面でもその有効性を発揮したのだ。

武田軍もかけていた鉄砲への投資

 設楽原の東に武田軍1万5000、西に織田・徳川連合軍3万5000(兵数は諸説あり)。鉄砲の数は前者が2700挺、後者が3500挺(織田軍3000挺+徳川軍500挺、『長篠日記』)。まぁ、普通に考えて結構な額の調達費が掛かっただろうな、ということはすぐに想像がつくよね。では、具体的にコストがいくら必要だったかを考えてみよう。

 天正3年(1575年)当時というピンポイントにどストライクで鉄砲の値段を記録した史料というのは現段階で存在しないのだが、鉄砲の一大生産地・近江国友村の記録では20年後の慶長期で標準タイプの六匁玉筒が単価7~9石となっている。

 9石は、現在の米価に換算すると40万円あまり。永禄年間には1挺50万円ほどだったらしいから、その中間の天正3年当時は間をとって45万円と仮定。永禄~天正~慶長の時代の流れの中での技術の進歩や大量生産体制の整備を考えれば、妥当なところじゃないかな。

 ただ、鉄砲生産地として国友だけでなく堺も抱えていて、完成した鉄砲の納入に要する輸送費も安く済む織田家に比べて、遠距離を運ばなければならない武田家には、その分のハンデを考えなければならない。何度も参考にした伝馬料金から計算すればざっくり1万円だが、ルートが山地ばかりだから険路割り増しでグッとあがって、5万円で加算してみよう。これで両軍の鉄砲の値段は[織田・徳川連合軍16億円弱:武田軍13.5億円]となる。

 このように鉄砲への投資額については、兵数から考えればむしろ武田軍の方が頑張っているとさえ言える。

 ところが、ところが。5月21日の日の出から始まった決戦では武田軍の各部隊は順番にひたすら騎馬武者と兵で正面攻撃をしかけ続け、「鉄砲で散々に撃ちかける」(『信長公記』)織田・徳川連合軍によって各隊が過半数を失うという一見愚劣な行動に終始し、午後2時ごろまでの9時間前後で2/3にも及ぶ損害を出し、山県昌景、馬場信春、真田信綱・昌輝(昌幸の兄たち)をはじめとするめぼしい武将たちも討ち死にするという最悪の結果となった。

長篠合戦犠牲者の首を洗ったという「首洗池」

 勝頼はわずかに数百人の旗本だけで戦場を離脱して、戦いは終わる。


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