前々回「織田信長の茶道インフルエンサーとなった2人の茶人」・前回「織田信長の権力掌握とともに飛び交った茶器と金銭」と、永禄11年(1568年)の織田信長上洛の際に茶器を献上した件を取りあげた豪商茶人・今井宗久。今回もそこを起点として話を始めよう(しつこいようですが、ここがまさにツボ、エポックなのでお付き合いくだされたく)。
永禄12年(1569年)7月というから、宗久が信長に茶器を献上してから1年近くが経った頃、公家の山科言継が京から美濃に下向していった。この時期、言継は正親町天皇先代・後奈良天皇の十三回忌の法事費用を調達すべく、三河の徳川家康のもとへ派遣される途中だったのだが、その前に信長へあいさつに寄ろうというのだ。
信長は言継を岐阜城の麓の屋敷に迎えて「言継殿はご高齢で足もご不安であろうし、猛暑もひどいでや。おまけに家康殿はいま駿河国境におりゃあす。特別なご事情が無ければお下りになる必要も無(ね)ゃーことだわ。飛脚を出して家康殿に伝えとくで、ここでのんびりご逗留(とうりゅう)なさってちょーでゃあ」
このとき家康は駿河・遠江国境における武田信玄の動きに警戒しながら、掛川城など遠江東部の支配を進めていた。言継は御年63と、当時とすればかなりの高齢だ。信長としては、ただでさえ臨戦態勢で忙しい家康のところへ老人をややこしい寄付金集めに行かせるのははばかられた。
自分が生まれる前の年に尾張を訪れて父・信秀と深く交流したこともある老公卿には親しみも持ち、炎天下の道中を心配する人間味を惜しみなく発揮できる相手だったのだ。
言継にとっても、骨身にこたえる暑さの中を気温が高い遠江へ旅するよりは、長良川で鵜飼の漁り火でも眺めながら岸辺の涼風を味わっている方が寿命も延びるというものだ。
そのうえ、信長はさらに付け足す。「家康殿が出せなければ、この信長が1万~2万疋程度は進上させてもらうで」
銭1万~2万疋=100~200貫=1000万円弱~2000万円程度。それが信長によって保証されたのだから、もう言継にとって断る理由も無い。老公卿は岐阜にゆっくりと滞在することと相成った。(ちなみに、信長からの連絡を受けた家康は協力を快諾し、信長・家康合わせて2万疋が朝廷に献金されて2カ月後の法要に使われている)
11年前、言継は7人の供を連れて伊勢に赴き、3カ月近くの滞在の末にようやく国司・北畠具教から30貫の献金を得ている。それにかかった費用は10貫。(しかも自腹)
今度の岐阜行は9人の供とひと月半余りの滞在だから、単純計算で80貫(約600万円前後)はかかった計算だが、それに対する見返りは圧倒的だった。言継としても、信長という圧倒的な財力を持つ武将の登場は、何ともありがたく、後光が差して見えたんじゃないかな、と思う。
岐阜城中と城下で茶器をめぐり大騒ぎ
と、ここまでは前振り。ここからが今回の本題となる。
そんなこんなの結果、岐阜でのんびりと吉報を待つこととなった老公卿・山科言継は日記に岐阜での見聞をこう綴っている。