橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年2月12日

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 前回「戦国時代に茶道ブームを引き起こした武野紹鷗の戦略」はリッチな武器商人・武野紹鷗がマネーパワーでバーチャル貧困を演出する侘び茶の世界を築き上げた話をした。歌道の大家である高級公家・三条西実隆の日記にはしょっちゅう〝秘計〟というワードが登場してくるのだが、これは「金策」「お金の工面」という意味。

 金欠で常にピーピー言っていたわけだ。

 紹鷗はそんな実隆の財務アドバイザー、すなわちファイナンシャル・プランナーとなり、諸方面に顔を売って商売に生かしながら、侘び茶の可能性を見いだしたことになる。今回は茶道大流行の基礎を築いたこの「茶湯の巨人」に続いた茶人をテーマに進めていこう。

信長が茶道にのめり込んだきっかけ

 そんな訳で、まずは織田信長とその周辺の茶道マネー咄からいってみようか。信長と茶道の関わりというのは、実はかなり早い時期に始まったようだ。

 若き日の信長にとっての茶道インフルエンサーは、彼の傅役(もりやく)だった織田家重臣・平手政秀。政秀は同じ織田家の太田牛一から「花奢(きゃしゃ)なる仁(じん)」(風流な人)と呼ばれるほどの、和歌に堪能なとびきりの趣味人。そのうえに連歌師の宗牧が「心をこめて人をもてなす事が生まれつき大好き」と評したほどの社交家で〝オ・モ・テ・ナ・シ〟名人だった。

名古屋城二の丸にある那古野城跡。平手政秀が織田信長の傅役として活動した地(筆者撮影、以下同)

 ちょっと話は逸れるのだけど面白いから、政秀があまりにも付き合い上手すぎたエピソードをひとつ紹介しておこう。

ちょっと一杯のつもりが

 天文12年(1543年)に朝廷への使者に立った政秀。ついでに訪れた大坂本願寺で法主・証如光教との面会に臨んだ。

 その場に出て来た証如は「使者ごときには破格だが」と渋々ながら少々の酒肴と湯漬け飯を出して応接している。というのは、織田家が津島近辺の本願寺門徒を圧迫して支配を強め、長島の本願寺勢力と対立する「悪党」で「ひときわ悪勢」だったから。

 「悪勢」は〝おぜ〟と読み、近隣を略奪したという古代の盗賊、鬼のこと。日本武尊に退治されたという伝説のワルに例えられるぐらい、織田家というのは信長だけでなくその祖父・信定や父・信秀の時代から本願寺にとって神話クラスの怨敵だった。その重臣の政秀にサービスして丸めこもうというあたり、さすが証如は貴族階級の老獪さを持つ政治家だった。

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