2022年6月30日(木)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年2月12日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 ところが、その上を行ったのが政秀。なにしろ、この数年後には織田家と死闘を繰り広げる宿敵・美濃の斎藤道三との講和を成立させる(しかも道三の娘を信長の正室に迎えるという好条件で)ほど高いネゴ能力と、比類無き付き合い上手を誇る彼のこと。そのわずかな時間ですっかり証如らを自分のペースに巻き込んでしまった。

 一献のやりとりで済ませるつもりだったはずの本願寺側だったのに、なぜか最終的に「とんでもない大酒になった」と記録している。政秀に乗せられて座が大いに盛り上がってしまい、期せずして大宴会に。なんだかそういう事ってありませんか? ちょっと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらなんとやら。いや昭和の流行歌じゃないから。

茶器へ飛び交うビッグマネー

 そんな、やばいくらいの社交術を身上とする政秀だから、和歌だけでなく爆発的流行前夜の茶道にも手を出していたに違いない。というか、実際に現代まで受け継がれている名物茶器にも、政秀が所有したといういわれの「平手肩衝(かたつき)」と呼ばれる茶入が唐物(中国製)と古瀬戸(ふるせと)の2種類ある。このうち後者は大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる、千利休以前から珍重されていた物のひとつだ。(それから、「合子の水翻(ごうしのみずかえし)」という物も、政秀の茶器として伝わっている。有名な豊臣秀吉の北野茶湯で使われた茶器にも同じ名前の物があるけれど、これは別物なんだろう。)

 さておき、大名物の方の「平手肩衝」はさぞかし目の玉が出る値段だっただろう。同じ大名物の茶入「中山肩衝(安国寺肩衝)」は江戸時代になって黄金1600枚で売買されている。これは大体1億6000万円前後だ。またこれも大名物の茶入「初花肩衝」はちょうどこの頃リアルタイムで10万疋(現在の価値で1億円弱程度)。平手肩衝も、推して知るべしなのである。

 だが、そんな出費も、政秀にとっては痛くも痒くもなかったようだ。尾張を訪れた公家の山科言継は、政秀の屋敷を見て「さまざまな用材や内装の豪勢さにビックリした」と記録し、特に「中でも数寄の座敷の凝りようはとびっきり」としている。

 この場合の「数寄」は当時風流のメインストリームだった連歌のことで、政秀はセレブなお屋敷の中に一段とゴージャスなサロンをしつらえて連歌会を催したのだ。趣味にはお金を惜しまずジャブジャブと投資するタイプだった政秀。どうです、大名物の1個や2個、何でもないでしょう?

政秀が巨大な資金を得られたワケ

 とはいえ、そこにはやはり財源というものが要る。彼がどうやって資金を確保していたのかというと、まず平手家の本拠のあった名古屋市北区の元志賀町周辺は刀鍛冶村で、その中には兼延をはじめとする名匠がいた。

 刀は戦国時代のマストアイテム。その製造と売却のうわまえをはねる政秀は産油国の元首のような存在だったに違いない。

 この頃の刀の値段は、権力者の贈答用の太刀で60万~70万円、普通の打ち刀で数万円。足軽が使うような、斬るというよりも叩き、曲がれば足で踏んで直すという感じの粗製濫造の刀ならさらに安いが、最も数が出るのはこの量産タイプだ。それが合戦ごとに売れるのだから、政秀も笑いが止まらない。

 どれぐらいの税収が政秀にあったのかは分からないが、例えば江戸時代、志賀の鍛冶の本家筋の美濃国関(現在の岐阜県関市)の刃物卸商は年間10両(100万円ほど)の税を納め、越前府中の鍛冶職同業組合は年間銀300匁(80万円弱)を殿様に献上していたことがわかっている。刀の需要が低迷した江戸時代でこれだから、政秀の頃はあるいは一桁違う額が入って来たのではないかな、と思う。

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