2025年5月23日(金)

偉人の愛した一室

2025年4月27日

 東京の南青山、骨董通りを中心とする一帯には高級ブランドが数多く集まる。そんなハイセンスな街にはやや異質な一角、芭蕉の木が塀の外まで枝葉を伸ばすのはあの岡本太郎の旧邸、アトリエが残され、多数の立体造形で彩られた記念ミュージアムである。

外壁がひと際目を引く手前の新館は木造2階建ての書斎・彫刻アトリエを開館の際に展示棟に建て替えた(WEDGE以下同) 写真を拡大

 改めて岡本太郎が注目されている。1970(昭和45)年に開催された大阪万博のシンボル「太陽の塔」の制作者であり、テレビカメラに向かって〝芸術は爆発だ〟と叫んで異彩を放った前衛芸術家が、なぜ、いま再評価されているのか。

 岡本一平とかの子、著名な新聞漫画家と女性作家の間に生まれた太郎は、29(昭和4)年、両親とともにフランスに渡り、そのままパリに居ついて画家への道を歩み始める。作品が着実に評価を受ける一方、シュールレアリストや先端思想家と交流を深め、さらにはM・モースの民族学に深く傾倒するなど、興味や思考のおもむくまま、自由で闊達な留学時代を過ごすことになる。彼の破天荒な精神はここで培われたと思われる。

 39(昭和14)年に第二次世界大戦が始まると、パリを離れて帰国する。日本で活動を始めたのもつかの間、42年には一兵卒として中国戦線に送られた。戦地で辛酸をなめた岡本が復員するのは終戦の翌年である。

 戦後あらゆる価値が混乱する中、岡本は刺激的な色彩とアバンギャルドな造形で前衛芸術の旗手となってゆく。加えて、メディアを通じて積極的に芸術論を発信、54年に刊行された『今日の芸術』がベストセラーとなるなど、戦後文化を牽引する存在となっていった。

 そうして迎えた大阪万博。

 開催の3年前、万博テーマ館のプロデューサーに就任した岡本はメディアからの批判にさらされる。時は70年安保闘争のただ中、権威を否定してきた前衛芸術家が国家イベントの先導役を担うことに、左派から反発の声が上がったのだ。一方で、大多数の国民は背高70㍍、大屋根を突き破るようにそびえる巨大モニュメントに大喝采し、岡本の名は誰もが知るところとなった。本人は世間の声など、どこ吹く風だったが─。

「コップのフチ子」とコラボした際に寄贈された「コップのフチの太陽の塔」が2階のベランダの〝フチ〟から庭を覗いている

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