東西の名作文学を集めることで知られる「新潮文庫」の中でも頭抜けて版を重ねる2作がある。一つは大漱石の『こころ』で、もう一冊が太宰治の『人間失格』である。
1948(昭和23)年、太宰は愛人を伴って熱海の旅館に籠り、かねて構想を固めていた畢生の作に取り掛かる。ひと月ほどで連載1回目の原稿を書き上げると、2回目を三鷹の仕事部屋で執筆、さらには大宮の知人宅で終章を仕上げ、掲載雑誌が世に出るのに合わせるように、愛人とともに玉川上水に身を投げた。時の流行作家の心中死は世間を騒がせ、文学青年たちに衝撃を与えた。

遺作となったこの『人間失格』は、他人や社会への怖れを抱える主人公が生きることにつまずき続け、アルコール中毒、薬物中毒に犯され、生きる希望を失ってゆくさまが手記の体裁で描かれる。人間の弱さや脆さを徹底してさらした作品世界は、太宰自身の内面の自画像であり、最大の文学テーマでもあった。
太宰の生家だった青森の「斜陽館」を訪ねた際、私の目を引いたのは蔵を囲む塀の高さだった。一帯の大地主であった津島家は小作農の襲撃を常に警戒していたとされ、その六男に生まれた太宰は、成長するにつれ重い罪悪感を抱くようになったという。その自責の念から東大在学中に左翼運動に傾倒し、21歳の折、自らを追い詰めるようにカフェの女給と最初の心中未遂事件を起こす。
しかし、自分だけが生き残ったことが太宰にさらに深い罪悪感をもたらし、以降、彼の人生は自己否定と破滅願望に塗り込められてゆく。それを文学に昇華することで作家デビューを果たしたものの、文壇から思ったような評価をえられず、酒や薬物に依存する堕落と絶望への道に迷い込んでいった。自殺未遂や心中未遂を繰り返し、やがて生活は荒廃の極に至る。
しかし、これは『人間失格』への助走だった、そう指摘するのは新潮文庫版の巻末、奥野健男氏の解説である。どういうことか。
38(昭和13)年、再起を図った太宰は再婚して生活を立て直し、作風も新たに次々と作品を発表してゆく。『走れメロス』や『津軽』、戦後には『斜陽』といった代表作が生み出され、一躍、流行作家の地位を確かなものとする。
一方で太宰は、徹底した自己破壊により人間の真実を描く文学、その集大成に向けて構想を固めていったと、奥野は分析する。太宰が前年に知り合った山崎富栄と「起雲閣」を訪れたのはそんな最中、春まだ浅い3月のことだった。