2025年1月3日(金)

偉人の愛した一室

2024年12月31日

 歴史に名を残す〝偉人〟たちが愛した建築物、空間が訪ねる雑誌『Wedge』の人気連載「偉人の愛した一室」。その歴史や文化を感じる全国各地の名所は、何度も足を運びたくなる。

連載「偉人の愛した一室」で紹介した山縣有朋の別邸「無鄰菴」(WEDGE、以下同)

 今回は、連載筆者の羽鳥好之氏が年末年始に再び訪れたいと思う、印象的だった〝一室〟を、取材時のエピソードを振り返るとともに紹介する。

近代史を決定づけた場所、山縣有朋の別邸「無鄰菴」

 京都の東山の麓、南禅寺の一帯は瀟洒(しょうしゃ)な邸宅が多く、いまも落ち着いた佇まいを見せる。明治20年代、田園地帯だったこの場所に琵琶湖から疎水をひく大工事が施され、それを利用する発電所が建設されるに至り、近辺には有力者の別邸が次々と建設されていった。

 その走りとなったのが明治の元勲、長州閥を率いて陸軍を牛耳った山縣有朋である。別邸「無鄰菴(むりんあん)」が当時のまま残されて一般に公開されている。

 付近には「蹴上(けあげ)インクライン」や煉瓦造りの水路橋など、疎水に関連する歴史的景観が遺されている。また、京都近代美術館や京セラ美術館といった文化施設も多く、その奥には平安神宮が鎮座している。季節のよい折には、散歩するだけでも京都の豊かさを実感できる特別なスポットといえる。

 私が無鄰菴を訪ねたのは暑さもさほど気にならない初夏の一日だった。地下鉄東西線の蹴上駅で降りて地上に出ると、新緑がまこと目に鮮やかで、風に吹かれてずっと歩いていたい気分だった。

 だが、歴史好きには訪ねたい場所があった。近代日本の岐路となる決定がなされた会合、通称「無鄰菴会議」が開かれた一室をぜひ見ておきたかったのだ。

 この別邸の詳細については過去記事「<偉人の愛した一室>重厚な和洋折衷の洋館と広大な庭園 国家の未来が話し合われた山縣有朋の別邸「無鄰菴」」をお読みいただくとして、早々、会議のあった一室、山縣有朋が愛した洋間にご案内しよう。

 一見、その厳(おごそ)かな雰囲気に息を呑む思いがする。豪華なのではなく、内装や調度によって醸し出される重厚な佇まい、その威厳に打たれる感覚といったらいいか。ことに、壁を覆う障壁画に使われた金箔が底光を発していて、洋間でありながら、古刹の奥の院の如き風情も感じさせる。

 この日のご案内役を務めてくれた学芸員より、興味深い話が披露された。この障壁画は戊辰戦争の折、さる大藩の城内から戦利品として持ち帰ったもの、そう云い伝えられているという。確証のない話なので原稿にするのはNG、そう言われて諦めたのだったが、山縣は日々それを眺めて何を思ったであろうか。

山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人がロシア外交を話し合った洋間

 ここに明治政府の歴々、山縣、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人が集まり、対ロシア外交を協議した。明治の創業に携わった山縣と伊藤、平素は意見の対立することが多かった2人が揃って慎重姿勢を示し、一方、明治国家の足腰が定まった頃から頭角を現した桂と小村が、対露強硬路線を主張する。

 荒波を乗り越えてきた創業世代と、それを乗り越えようとする世代、激論が交わされた末に採択されたのは、大国ロシアとの戦争も辞さずとする強硬派の主張だった。日本の軍国主義はここから始まったとするなら、まさに近代史を決定づけた瞬間だった。

 歴史の証言者として「無鄰菴」はいまも訪れる人を静かに待っている。


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