1903(明治36)年4月21日、京都の山縣有朋の別邸で、その後の日本外交を決定する話し合いがもたれた。邸宅の名をとって「無鄰菴会議」と称される歴史的会合である。
出席したのは山縣の他、政友会総裁の伊藤博文、首相の桂太郎と外相の小村寿太郎である。当時日本は、満洲や朝鮮半島の権益をめぐってロシアと鋭く対立していた。対露強硬策を主張する桂と小村の現役組が、慎重姿勢を崩さない元勲2人の説得に成功し、満洲におけるロシアの優位を認める代わりに朝鮮での日本の権益を認めさせる、ロシアが抵抗する場合には開戦も辞さず、とする方針が決定された。どんな激論が交わされたのか、その詳細は明らかではないものの、1年後、日本は日露戦争へと踏み切り、これに勝って軍事大国へと歩んでゆくことになる。
無鄰菴があるのは洛東である。
明治20年代、南禅寺の門前一帯には琵琶湖からの疎水が引かれ、これを利用した日本初の水力発電所も建設された。田畑だった一帯には有力者の別邸が造られていった。その先駆けが山縣邸であり、広大な敷地に和洋2棟の建物と茶室、東山を借景とする庭園が造営された。
山縣は、当時まだ世間に知られていなかった造園家、小川治兵衛に施工を依頼し、庭園の中に自然の景色を取り込むよう要望した。ここに生まれた新しい造園法は小川の手で世に広められ、日本庭園の新たな流れを生んでゆく。下級武士に生まれた山縣の感性が、京都に新しい美意識を植え付けたのだ。山縣は故郷山口にあった別荘と同じ名前をつけた。
周辺一帯はいまも木々の緑が美しい。門をくぐり、開け放たれた母屋の玄関に立つと、大広間越しに庭が目に入る。お出迎え効果は十分だ。玄関を上がった先にまず坪庭があり、豊かな光が注ぎ込む。その奥が庭園に面した大広間となる。
多様な木々で囲まれた庭園は東山を背に奥行きを感じさせる。最奥では疎水から引かれた水が岩間を下って流れ落ち、池をなし、小川となって庭をめぐる。苔ではなく芝生を植え、水辺を縁どるように大小の石が据えられて景色をなし、そこに花木が彩りを添える。この日は杜若が見事な花を咲かせていた。確かに、従来の池泉回遊式とは異なる趣きがある。山縣が望んだ風景なのだろう。