さて、歴史的会議が開かれた洋館に移ろう。
庭から眺める景観を損なわないよう外観は土蔵造りである。扉まで土蔵風の出入り口から2階に上がると、16畳ほどの主室に出迎えられる。一歩、足を踏み入れるや、なんとも言えない厳かさに包まれた。
壁は4面、腰板から上を金碧障壁画で覆っている。描かれるのは桜、松、柳のほか、鶴やサギ、クジャクである。一見、狩野派のようにも見えるが、伝統にはない赤い椿も描かれている。山縣が愛した花だ。
「作者は不明です。狩野派の流れをくむ絵師であろうというのが専門家の見立てですが、ただ……」
管理する植彌加藤造園の学芸員、重岡伸泰さんによれば、「さる城にあったものが友人の手を経てここにやってきた、そう山縣は語っていたそうです」
いずれにしても、山縣はこの障壁画をとても大切に扱い、そのために暖炉をわざわざ壁から離して設置している。
障壁画から視線を上げると、洋風にアレンジされた折り上げ格天井である。格子の中に描かれるのは花鳥ではなく柏の葉のデザイン画。この和洋折衷がいかにも明治を感じさせるとともに、独特の重厚感を醸し出している。
設計したのは新家孝正、近代建築を日本に伝えたジョサイア・コンドルの弟子であり、師からは日本の風土に合った建築を目指せと教えられていた。折衷の中にも調和を失わない設計はそこに由来するかと思われる一方、型にとらわれない山縣流も感じさせる。明治を牽引した政治家の心の風景を想像させて興味深い。
政治家としての
山縣の実像とは
近年、山縣有朋の評価が見直されている。政党政治を目指した伊藤や原敬に対し、藩閥政治を主導した山縣、軍制や官僚制を整備して軍国主義を推進した山縣、疑獄事件に度々名を連ねる山縣、どちらかといえば否定的な評価が前面に立ってきた。
だが、研究が進むにつれ、軍事行動には常に慎重だった姿が明らかにされ、ことに中国での「義和団事件」に際し、山縣が示した国際協調の姿勢には諸外国から高い評価が下されたとされる。地方制度も含め、国の根幹作りに尽力した実務的で堅実な政治家像が描かれつつあるのだ。
次の間に山縣が愛用したソファが残されていた。ひじ掛けの先に書見台が付く珍しいそれは、生涯、読書を欠かさなかった勉強家の山縣らしいと、前述の重岡さんは話す。
長州の松下村塾には志に燃える下級武士たちが集い、それが明治維新の原動力となった。山縣はその一員だったことを生涯の誇りとし、死んでいった仲間たちの墓参りを欠かさなかったという。同門だった伊藤が欧州留学を誇り、西欧流を志向したのと好対照である。無鄰菴が語りかけてくるのはそんな山縣の真の姿、実直な長州人そのままの生き方のように思える。