3代将軍家光の乳母として大奥で絶大な力をふるった春日局。だが、実は乳母ではなく生母であったとするのが最新の研究である。母とされてきたお江は豊臣家に嫁す千姫に随行して江戸を離れていて懐妊はあり得ず、事実、待望の将軍家世継ぎの誕生が、しばらく公にはされなかったのである。
なぜ、そんな面倒なことになったのか。春日局ことお福は、2代将軍秀忠の正室お江の侍女だった可能性が高く、そうした立場の女性が男児を産んだ場合、女主人の子とされるのが常だった。一方で、美濃の名族の血を引くお福には将軍側室として生きる道もあったが、その場合、自らの手で育てることが許されないのがまた当時の慣例だった。秀忠の長男を早世させていた徳川家内で、虎の子の男児を健康に育てるには生母の母乳が大事との意見も起こり、お福が乳母となって直に育てる道が選ばれた─これが福田千鶴氏の説であり、疑念の余地はないように思われる。この選択がお福の生涯を苦しみ多いものとしてしまう。
実は、乳母の道を選ぶ理由がもう一つあった。当時、家を継ぐには母親の血筋が重視され、次男、三男であっても正室から生まれた男児が継嗣となるのが常道だった。仮に家光の後にお江が男児を生んだら、そちらの優先順位が高くなる。ならば、最初から正室腹としておくのがこの子のため、そう、お福は判断したと福田氏は推論するのだが、それが現実となったのが2年後、お江に待望の男児、後の忠長が生まれるのである。秀忠とお江は忠長に強い愛情を注ぎ、幕臣らもその意向を察する状況に危機感を抱いたお福が、駿府にいた大御所家康に直訴、鶴の一声で家光の後継が決まったというのはよく知られた話であろうか。
お福は、家光が将軍となった後も乳母の立場をわきまえ、また、病弱でしばしば重篤な病に罹った家光のために〝薬絶ち〟して願掛けするなど、生涯、献身的に仕えた。それを何よりの支えとした家光も、生母にまさる扱いで応えた。お福が病に臥せった折、家光は薬を服用するよう懇願し、天下の名物茶碗を贈ったものの、お福は服薬を拒んでいる。この茶碗こそが〝稲葉天目〟、世界に3個しか現存しない窯変天目の中でも最上とされる国宝茶碗である。