2024年12月23日(月)

偉人の愛した一室

2024年1月28日

 「一休さん」といえば、昭和の人気アニメ。可愛いけれど、ちょっとこまっしゃくれた小坊主のとんち話でよく知られるが、本家の一休宗純なる禅僧は、そうわかりやすい人ではない。その奥深い生き方に魅了される人は、在世中も今も、数多い。

 生まれたのは1394(明徳5)年、一説には後小松天皇の落胤とも言われる(その墓は今、陵墓として宮内庁の管轄下にある)。6歳で京都の安国寺に預けられて学問に励み、13歳にして詩作が洛中で評判になるほどの才を示した。「とんち一休」だったかは別に、極めて聡明な少年だったであろう。17歳で高僧の弟子となって名を宗純と改めたものの、その師が世を去るに際し、いまだ悟りを開けないことに絶望して、自殺未遂を図ったとされる。

 人生の転機を迎えたのは27歳だった。大徳寺の華叟宗曇の弟子となっていた一休は、ついに大悟の境地に至る。宗曇がこれを認めて印可を与えようとするが、それを拒否し、さっさと寺を出てしまうのだ。その境地を忖度すれば、ここにはもう学ぶことはない、そんなところか。

 なるほど、それからの人生がこの名僧の真骨頂だった。京や堺といった繁華な地を転々としながら、漢詩や狂歌、書画を制作して楽しむ「風狂」生活にどっぷりと浸かるのである。自身の詩集『狂雲集』には〝酒肆淫坊〟つまり酒場や売春窟に入り浸る破戒ぶりが赤裸々に告白される。特筆すべきは盲目の女芸人との愛欲生活だ。

 77歳の折だった。摂津の住吉大社に遊ぶ一休は、鼓を打ちつつ艶やかに唄う女芸人に出会った。ふくよかな肢体とも相まって心ひかれた一休は、その女と夜通し語り合い、さらに深く魅了される。その思いは断ちがたく、翌年、森と名乗るその女を自身の住む庵に連れ帰り、同棲生活に入る。僧にあるまじき破戒行為であるばかりか、30歳になるかならぬかの若い妻との愛欲を、誰はばかることなく謳いあげてゆくのだ。

 二人の出会いにさかのぼる数年前の1467(応仁元)年、京では応仁の乱が起こっていた。一休は戦禍を逃れて東山に草庵を結び、さらに翌年、この庵ごと南山城へと移り住んだ。崇敬する南浦紹明が起こした道場のあった地に堂宇を再建し、名を酬恩庵と改めた。本堂を寄進したのは室町将軍、足利義教である。

 一休のもとに集う多数の弟子たちは、この妻帯をどう感じていたのだろうか。意に介する風のない一休と森女との蜜月は、二人の死別まで10年ほども続いたのだ。


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