草庵は当時の
文化サロンだった
京都府京田辺市にある酬恩庵、通称一休寺には、一休が最晩年を過ごした「虎丘庵」が、静かな佇まいを見せていまに残る。
方形、檜皮葺の屋根が乗る簡素な建物には、一休の筆になる「虎丘」の扁額が掛かる。内部は6畳、3畳のふた間に、2畳の水屋がついている。居室にしていた6畳間は床、明かり取りの障子窓、仏間がついた茶室風書院造りである。窓の下には書見や書き物のための台が設けられ、窓先には白梅が植えられている。
外に目を移すと、庭石と苔だけの小さな庭園が堂宇を囲むように造られている。禅院枯山水で、かの村田珠光作と伝えられる。珠光は武野紹鴎、千利休へと連なる「侘茶」の創始者であり、一休のもとに参禅し、その喫茶法も学んだとされているから、いまに続く茶の湯はこの庵が源流の一つともいえるのだ。珠光のほか、連歌の柴屋軒宗長、猿楽(能楽)の金春禅竹ら、当代一級の文化人たちが一休を慕って集い、さながら文化サロンの様相を呈していた。
当寺のご住職、田邊宗一氏は、一休の〝破戒僧〟ぶりをこう語る。
「さて、森女は本当に盲目の女芸人であったかどうか。一休さんの4代末の弟子が残した手紙が当寺にありまして、そこには、森女の小袖を売って虎丘庵を建てたとあります。真実は富裕な女性信者ではなかったかと、私は考えております」
一休の詩のほうがよほど面白いのか、なかなか信じてはもらえませんが─そう締めくくり、ご住職は微笑された。
話をうかがった「方丈」は前面、東、南の三方を庭園に囲まれる。江戸初期としては第一級のもので、禅院枯山水の白眉と言って差し支えないだろう。手入れの行き届いたその美しさは、息をのむ思いだった。
さて、果たして一休は、詩に書いたような破戒僧であったのか。答えはそう簡単にはゆかぬだろう。
74(文明6)年、応仁の乱で焼け落ちた大徳寺の再興を目指し、一休に住持となるよう、後土御門天皇の勅命が下された。81歳になっていた一休はそれを迷惑と感じつつ、社会各層から尊敬される身として断ることもできず、この地にとどまったまま、付き合いの深い京や堺の豪商たちに資金提供を促した。一休の徳を慕う多数が応じた結果、今日に残る伽藍の再建が成った。大寺社の腐敗を糾弾し、権力の座にある者たちを皮肉たっぷりにからかってきたこの〝快僧〟には、大徳寺でふんぞり返る己の姿は想像できなかったろう。
森女との情愛に満ちた晩年は真実に違いないが、露悪的な〝破戒〟伝説は、この高僧一流の諧謔であったかもしれない。