2024年5月20日(月)

偉人の愛した一室

2024年1月28日

草庵は当時の
文化サロンだった

 京都府京田辺市にある酬恩庵、通称一休寺には、一休が最晩年を過ごした「虎丘庵」が、静かな佇まいを見せていまに残る。

一休が書いた扁額が虎丘庵には掛かっている。「虎丘」の名は中国の禅僧、虎丘紹隆に由来している

 方形、檜皮葺の屋根が乗る簡素な建物には、一休の筆になる「虎丘」の扁額が掛かる。内部は6畳、3畳のふた間に、2畳の水屋がついている。居室にしていた6畳間は床、明かり取りの障子窓、仏間がついた茶室風書院造りである。窓の下には書見や書き物のための台が設けられ、窓先には白梅が植えられている。

虎丘庵の障子窓からは庭に植えられた白梅が見える。一休はこの窓から明かりを取り、書き物をしていた(SHUON-AN IKKYUJI-TEMPLE)

 外に目を移すと、庭石と苔だけの小さな庭園が堂宇を囲むように造られている。禅院枯山水で、かの村田珠光作と伝えられる。珠光は武野紹鴎、千利休へと連なる「侘茶」の創始者であり、一休のもとに参禅し、その喫茶法も学んだとされているから、いまに続く茶の湯はこの庵が源流の一つともいえるのだ。珠光のほか、連歌の柴屋軒宗長、猿楽(能楽)の金春禅竹ら、当代一級の文化人たちが一休を慕って集い、さながら文化サロンの様相を呈していた。

虎丘庵の庭園。大徳寺山内真珠庵の庭園と同一手法が用いられており七五三配石となっている

 当寺のご住職、田邊宗一氏は、一休の〝破戒僧〟ぶりをこう語る。

「さて、森女は本当に盲目の女芸人であったかどうか。一休さんの4代末の弟子が残した手紙が当寺にありまして、そこには、森女の小袖を売って虎丘庵を建てたとあります。真実は富裕な女性信者ではなかったかと、私は考えております」

 一休の詩のほうがよほど面白いのか、なかなか信じてはもらえませんが─そう締めくくり、ご住職は微笑された。

 話をうかがった「方丈」は前面、東、南の三方を庭園に囲まれる。江戸初期としては第一級のもので、禅院枯山水の白眉と言って差し支えないだろう。手入れの行き届いたその美しさは、息をのむ思いだった。

方丈の南に位置する枯山水庭園。石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六昌俊により江戸時代初期に作庭されたもの。白砂が整然と敷きつめられた庭の中央には大きなサツキの刈り込みがあり、ひときわ存在感を放っている

 さて、果たして一休は、詩に書いたような破戒僧であったのか。答えはそう簡単にはゆかぬだろう。

 74(文明6)年、応仁の乱で焼け落ちた大徳寺の再興を目指し、一休に住持となるよう、後土御門天皇の勅命が下された。81歳になっていた一休はそれを迷惑と感じつつ、社会各層から尊敬される身として断ることもできず、この地にとどまったまま、付き合いの深い京や堺の豪商たちに資金提供を促した。一休の徳を慕う多数が応じた結果、今日に残る伽藍の再建が成った。大寺社の腐敗を糾弾し、権力の座にある者たちを皮肉たっぷりにからかってきたこの〝快僧〟には、大徳寺でふんぞり返る己の姿は想像できなかったろう。

 森女との情愛に満ちた晩年は真実に違いないが、露悪的な〝破戒〟伝説は、この高僧一流の諧謔であったかもしれない。

   
▲「Wedge ONLINE」の新着記事などをお届けしています。

Wedge 2024年2月号より
霞が関の危機は日本の危機 官僚制再生に必要なこと
霞が関の危機は日本の危機 官僚制再生に必要なこと

かつては「エリート」の象徴だった霞が関の官僚はいまや「ブラック」の象徴になってしまった。官僚たちが疲弊し、本来の能力を発揮できなければ、日本の行政機能は低下し、内政・外交にも大きな影響が出る。霞が関の危機は官僚だけが変われば克服できるものではない。政治家も国民も当事者だ。激動の時代、官僚制再生に必要な処方箋を示そう。


新着記事

»もっと見る