2026年3月3日(火)

酷似する 「戦間期」と現代

2026年3月3日

戦前日本はなぜ米中との関係を誤り、破局へと突き進んだのか。外交判断が大衆世論に左右された歴史が現代日本へ与える示唆とは。「Wedge」2026年3月号に掲載されている「酷似する「戦間期」と現代 第三次世界大戦を防げ」記事の内容を一部、限定公開いたします。
イラストレーション・管 弘志

 日本近現代史を中心に長年研究を重ねてきたが、昨今の情勢を見るにつけ、まさかここまで「1930年代の危機」と類似した状況が現代に再来するとは思わなかった。議会制民主主義の危機や全体主義国家の台頭など、国内・国際情勢ともに、類似した状況がかなりの点で見られるのである。

 その中でも30~40年代の日本は、西に中国、東に米国と同時に事を構えるという「最悪の選択」をし、それが国家を破滅にもたらすことを歴史的に示したといえよう。

 41年に始まった日米戦争=太平洋戦争は、37年に起きた日中戦争が進むにつれ、米国が中国に加担していったことで起こったと言っても過言ではない。さらに振り返ると、日中戦争は、かなりの程度、31年の満州事変が原因で起きている。

 そこでここでは、満州事変に至る日中米間の歴史を簡略に振り返ってみることにしたい。

満州事変への道
日中米関係史を振り返る

 日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で、関東州(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)沿線は日本の租借地になった。

 日露戦争では極めて多くの死者を出し、新聞には連日「日本が勝った、勝った」との報道が掲載されていたが、講和条約では遼東半島と南樺太などわずかなものしか賠償はなかった。国民は到底、講和条約に納得できず、05年に日比谷焼打ち事件を起こす。多くの死者・負傷者・逮捕者を出す騒擾は全国で約1カ月続き、日本初の戒厳令が施行された。一言で言えば、「大衆の時代」の日中関係、日米関係の始まりであった。

 租借地となって以降、日本人居留民は徐々に増加したが、 条約上の正当な権益を守ろうとする日本人と 現地の人々との摩擦や衝突は避けられないものとなった。11年の辛亥革命に際しては、革命の有力根拠地が東京であっただけに北一輝ら少なからぬ日本人が革命を支援しており山田良政のように孫文から深謝された人物も出ている。が、袁世凱の大総統就任によって革命は裏切られ、孫文らは13年に第二革命を起こす。この時、第一次南京事件など、中国側による日本人に死傷者の出る略奪暴行事件が起き、大きく報道された。

 日本では国民大会が開かれ、対中強硬政策を主唱する群衆が、外務省などに押しかけ、当時の政務局長が刺殺される事件まで起きた。

 第一次世界大戦開戦に英米連合国側で参戦し、山東半島を攻略した日本は15年1月18日、中国への要求をまとめた対華21カ条要求を提出する。中国は受諾の5月9日を「国恥記念日」として激しく抗議してきた。とりわけ自主的配慮を要請した非公式的な希望条項第5号(日本人の政治経済軍事顧問雇用、日中合同警察設置要求など。希望条項ゆえ後に概ね削除されている)の存在を中国側が暴露し、加藤高明外相は批判にさらされた。外交交渉の内容をすべて他国に通知する義務はなかったから、これは袁世凱の巧妙な対外世論工作であった。


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