ただ、21カ条要求の背後には、中国側が64万ドルを支払って謝罪した第一次南京事件などの日本人が被害にあった事件に対する国民の不満を配慮する必要があったことも忘れてはならない。このため議会も新聞・雑誌世論も「強硬論」であり、当時の朝日新聞は一貫した要求貫徹論を主張し、「民本主義」を提唱した吉野作造ですら、「我国の最小限度の要求を言現わしたもの」として、削除を「遺憾」としていた。
その後、中国は軍閥対立の時代となるが、主要な軍閥や政権は日本に依拠するか日本を利用していた。例えば段祺瑞政権は財政も軍隊も日本に依拠して維持されていた。孫文も、革命援助の代わりに満州を租借地とすることや21カ条要求第5号とほぼ同じ内容の盟約を日本側と交わしている。
終戦後に迎えた21〜22年のワシントン会議では、中国に関する9カ国条約が結ばれ、各国が協調して現状を維持しつつ、中国の自立を助けることが決められ、日本が攻略した山東半島を中国に返還することも決められた。ここに「国際協調の精神」が生まれ、日本も協調外交の担い手になってゆく。
排日移民法成立で
反米運動も渦巻く……
しかし24年、米国は日本人移民を実質禁止する「排日移民法」を成立させ、日米による協調体制は大きく崩れた。
パリ講和会議における日本の人種平等提案を米国のウィルソン大統領が否決して以来の不満の蓄積があり世論は激昂した。米国大使館前では抗議の切腹自殺が行われたほか主要新聞社の対米宣言や1万人を超す対米国民大会が開かれるなど、巨大な反米運動が渦巻いた。
一方、中国はワシントン条約に満足せず、23年以降、日本の条約上の権益を認めないとする国権回収運動を始め王正延外交部長の革命外交に至る。
※こちらの記事の全文は「Wedge」2026年3月号に掲載されている「酷似する「戦間期」と現代 第三次世界大戦を防げ」で見ることができます。
