唯一残された
江戸城の豪華御殿建築
東京近郊の行楽地として急速に人気を集める街並みがある。埼玉県川越市の古い商家が集まる一帯は〝蔵の町〟と呼ばれ、若い男女や外国人が名物のお芋スイーツを手に闊歩する。週末はおろか、平日も人でごった返している。その喧噪から逃れるように建つのが名刹、喜多院である。江戸時代からの堂宇がいまも威厳ある構えを見せ、実のところ、こちらこそが〝小江戸〟なのである。
荒廃した古刹を「喜多院」として再建したのは、徳川家康から帰依を受けた南光坊天海である。その庇護のもと広大な伽藍を誇ったものの、家光の代の1638(寛永15)年に全焼してしまう。天海を崇敬する家光は再建を指示し、江戸城から即座に御殿を移築するよう命じた。それが客殿、書院、庫裏としていまに残る江戸城の遺構、通称「家光誕生の間」と「春日局化粧の間」である。
「誕生の間」とされる客殿は、一段高い12畳半の上段の間に、二の間、三の間、仏間が正方形に並び、さらに小ぶりの2間が付属し、それを入側が囲む間取りとなっている。上段の間は1間半の床付き、違い棚に天袋も備わる。これを囲むのは狩野探幽の深淵な襖絵の世界、見上げる格天井は、土佐派と思しき華麗な草花絵で覆われている。まさに豪奢な意匠の御殿建築である。
これに連なる書院、「化粧の間」と呼ばれる一郭は、8畳が2間、12畳が2間の4間に区切られている。2間には床が付いているものの、奥女中が日常起居する簡素な部屋、そんな造りとなっている。これらに、いまは庫裏として使われている建物を渡り廊下でつなぎ合わせたというのが寺側の説明である。
さて、これは実際に家光が生まれ、春日局の化粧部屋であったものか。建築史家は、確証は得られないとする一方、上級武家の御殿建築の典型であり、或いは、家光が「大奥」入りする際、春日局と面談するための特別な場所として設けられたものではないかと推測している。
客殿の前に広がる広大な庭園には、かつて家光お手植えの桜があったとされ、秋には美しい紅葉がみられるという。そのお庭を眺めながら、ご住職の塩入秀知さんが話す。
「この庭は江戸城の紅葉山の風景を模したといわれています。それゆえ、紅葉山にあった御殿を移築した、そう寺には伝わります」
ことさら「誕生の間」にこだわる必要もないほど、貴重かつ厳かな建築であることは間違いない。
春日局は大奥を取り仕切ったばかりでなく、家光の朝廷工作の一翼を担うなど、幕政に大きく貢献する。一方で、愛しいわが子に対し、生涯、母を名乗ることはなかった。家光はあくまで正室から生まれた〝陰りなき将軍〟でなければならなかった。その辞世をこう結んでいる。
西に入る 月を誘い 法を得て 今日は火宅を 逃れぬるかな
重すぎる覚悟を抱えた厳しくひたむきな生涯であった。