2026年5月10日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年5月10日

 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取るという大金星をあげた織田信長。その後の信長は三河岡崎の松平元康(後の徳川家康)と手を組んで、美濃の攻略に専心する。

鵜沼城主・大沢次郎左衛門(左)の内応工作に奔走した豊臣秀長(NHKホームページより)

 その中で、大河ドラマでは豊臣兄弟がいよいよ本格的に織田家臣としての重要な任務に就いていた。岐阜城への突破口をこじあけようというのだ。

 永禄7年(1564年)、丹羽長秀が敵対する織田信清の二人の家老を寝返らせて信清の犬山城をあっさり攻略すると、犬山城から木曽川を挟んだ対岸にある鵜沼城を次のターゲットに定めた。ドラマではここで豊臣兄弟が鵜沼城主・大沢次郎左衛門の内応工作に奔走するのだが、その元ネタの『太閤記』では永禄9年(66年)の出来事となっている。しかしこれは間違いで、鵜沼城奪取は1年早い永禄8年のことだ。

犬山城(筆者撮影)

 犬山城制圧の翌年には、鵜沼城からさらに木曽川を遡った奥の場所にある猿琢(さるはみ)城が攻略され、さらにその奥の加治木城が織田家に寝返っていることを考えると、孤立した鵜沼城もそれから遠くないタイミングで織田方の手に落ちていたと考える方が自然だ。だから太閤記より1年早かったというのが正解だろう。

 ドラマでは「犬山城を落とす方法は」といらだつ信長に「鵜沼城を先に落とすべし」と進言していたが、実際にはやはり犬山城の陥落が先、鵜沼城奪取はその後なのである。

 そこで問題になるのがその「落ち方」。『信長公記』によると、鵜沼城は信長が近くの伊木山(いぎやま、鵜沼城の南西隣)に陣を置いて圧力をかけた為、「抱えがたく存じ、(織田へ)渡し進上」したとある。


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