2026年5月29日(金)

日本主導で平和の再構築を

2026年5月29日

 安達峰一郎が生きた大戦間期は、「危機の二十年」と呼ばれている。第一次世界大戦後、二度と同様の大戦を起こさないために、国際連盟や不戦条約が成立し、国際法による戦争の違法化が進められた。にもかかわらず、1939年には第二次世界大戦が勃発し、国際秩序はわずか20年で崩壊してしまう。

米ニューヨークの国連本部にある国連総会ホール。国際連合は第二次世界大戦の惨禍を踏まえ、1945年10月に設立された(CHRIS HONDROS/STAFF/GETTYIMAGES)

 「危機」に大きく貢献してしまったのが日本だった。20年代には幣原喜重郎外相のもと、国際協調外交が開花したが、その命は短かった。31年に関東軍が満州事変を引き起こし、翌年満州国を建国する。33年には連盟を脱退し、中国大陸において「自衛」を掲げ、戦争へと突き進んでいく。なぜ日本の協調外交の基盤は、かくも脆弱であったのだろうか。

 日本が公然と連盟や不戦条約を否定するようになるのは、30年代のことだが、連盟や不戦条約への違和感や反発は、それ以前から、日本の政策決定者や国民の間に長く潜在した。そのような大戦間期の日本にあって、安達峰一郎は、連盟や不戦条約、その背後にあった戦争違法化の歴史的な意義を理解し、連盟の日本代表および常設国際司法裁判所(PCIJ)の判事として、実践的にも国際協調に貢献した稀有な人物であった。本稿では、安達のPCIJでの活躍を、それを支えた安達の国際法観に注目しながら見ていきたい。

 1889年9月、安達は帝国大学法科大学に入学し、国際法を研究した。安達にとって国際法研究は、国際社会における日本の生存と地位向上という外交目標と不可分だった。93年夏、外交官として最初に赴任したローマへ向かう途上、アジア・中東・アフリカの諸地域で現地の人々が「殆んど奴隷の壇界にある」ことを目撃し、欧米諸国から「一等国」としての承認を獲得する必要性を痛感する。

 それから十数年経った1912年12月、安達は「国際法研究に就て」という論文を著し、日本が国際法を遵守できる「一等国」として、欧米諸国に対等な存在と認められるに至ったことへの満足感を表明している。19世紀半ばに開国した日本は、国際法に関する知識を精力的に摂取し、さらには国際法を外交上の一つのツールとして活用して、欧米諸国と肩を並べる「一等国」としての地位を順調に確立した。

 20世紀転換期、日本は日清戦争および日露戦争という二つの戦争を戦ったが、その勝利を欧米諸国からの承認へと結びつける上で、有賀長雄と高橋作衛ら国際法学者が大いに貢献した。彼らは海外に向かって、日本がいかに戦時国際法を遵守した「文明的」な戦争を遂行しているかを宣伝したのである。


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