詩人の金子光晴は昭和のはじめ、妻の森三千代と愛憎の入り組んだ離合を繰り返しながら上海、香港、マレー半島などのアジア各地、そしてパリ、ブリュッセルなど欧州へ足かけ6年にわたり、転々と放浪の旅に身をまかせた。帰国後、戦時体制下で「落下傘」「鮫」など苦い暗喩を込めた反戦詩を密かに書き続けたことから、戦後の高度成長の時代になってこの「エロスと風狂の老詩人」は若い読者から思いもかけない喝采を浴びる。
〈やせて皺が寄り、眉が長くのびている。薄くて赤いくちびるがかたくなに一文字に閉じ、なみなみならぬ癇癖の強さ、皮肉、叛意をたたえているところは変わりがなく、話をはじめるとやがて眉のなかで眼がよみがえり、いきいきと光ってうごき、ときどき持ちまえの茶目気分が閃きはじめる〉
作家の開高健がインタビューでこうスケッチしたのは1968年、不埒で怪しげな詩人が73歳の時である。「高徳の破戒僧」のような老詩人はその場でひょいと腕をまくってみせると、産毛一本ない腕は「青いまでに澄んだ、絖のようにしっとりした膚で、労斑も黒子もない。たじたじとなりながらその少女の膚を目で追っていくと、首まで来てからとつぜん寒山拾得が顔を出す」。作家はあきれたように記している。
相反する老いと若さが入り組んだ不思議な肉体こそ、時代の〈空気〉に押し流されやすいこの国に稀有というべき、反骨と叙情の詩歌を詩人が持続させた要因かもしれない。
金子光晴が香港や上海、シンガポールやジャワ、マレー半島などの各地へ放浪と漂泊の旅を重ねたあと、マルセイユ経由でパリに着いたのは1930(昭和5)年の1月である。
34歳、詩集『こがね蟲』で象徴派詩人として多少なりとも名を知られていたとはいえ、継父から相続した財産だけが頼りの寄る辺ない旅である。あまつさえ、日本を出発するまえに結婚した森三千代との間に子供ももうけ、その幼子を三千代の里に預けた上での無頼きわまる夫婦の道中だった。
かててくわえて、上海で妻の三千代は日本で親しんでいた学生の土方定一と恋愛関係に陥り、光晴は妻とは別れて単身で東南アジアをめぐってパリへようやくたどりつく。気まずい再会を経て、奇妙な夫婦の危うい旅が続くのである。
パリではまず日本大使館に赴き、登録された日本人旅行者の名簿を頼りに三千代の住むリュクサンブール公園の裏手の小さな部屋貸しホテルを訪ねあてた。
〈彼女はどう節約してか、まだ5フラン紙幣、10フラン紙幣を何枚かもっていたが、もし僕の来るのがあと十日か二十日おくれたら、彼女がどんなひどいことになっていたとしても、文句の言いようのないところだった。また、たとえ僕が2千フラン、3千フランもっていたとしても、使い減らすだけで、補給の難しいパリの街にいて、何かの手を打たない限り、この蜘蛛手から逃れることはむずかしそうであった〉
光晴は『ねむれ巴里』でそのように回想している。
