光晴はもともと絵描き志望で、子供のころ小林清親の画塾に通い、東京美術学校にも一時籍を置いたことがある。とりあえず紹介された額縁作りのアルバイトで日銭を稼いだ。さらにパリの人々や風俗を日本画風のタッチで描いて、知り合った有閑夫人や成金紳士に買ってもらって生計を得た。そこでは「日本から来た貴族の落胤」という演出と、当世はやりのジャポニスム風の「第二のフジタ」という触れ込みが、目論見通りに役に立った。
〈そういえば、平民の小成金の家で、応接間にルイ14世式、15世式の金箔でピカピカした家具を作らせて得意になっている者が多いのにだんだん気がついてくる。大革命の犠牲はなんのため、パリコミュンはどうしたのだと言いたくなるが、成り上がりものがじぶんの素性をかくすために貴族のまねをするのは世界のどこへ行ってみても変わりのない心事である〉
それぞれの「花の都」の眺め
第一次世界大戦で戦勝国につらなった日本は好景気で、「芸術の都」のパリには藤田の後を追う画家の卵の若い日本人が続々とやってきた。1920年代の最盛期にその数は400人ほどにのぼったといい、藤田の仕事場はそうした日本からの若者たちであふれた。海老原喜之助、岡田謙三といったのちに名を成す画家をはじめ、高野三三男、板東敏雄ら若い留学者たちが「親父さん」と藤田を慕って集まってくるのである。
1929年の4月にはパリのルネサンス画廊で「仏蘭西日本美術家協会展」が開かれ、49人の日本人画家が出展した。会長は藤田、協会の創立者に薩摩次郎八の名がある。
パリにおける藤田の成功も、薩摩次郎八という綿紡績で財を成した資産家の後援に負うところが少なくない。「バロン・サツマ」の名でパリの社交界に名をとどめたこの人物は、エコール・ド・パリの画家たちの作品の収集やパリ郊外での自動車レースの開催などで華やかな話題をまいた。東西文化交流を主題にした巨大な壁画を藤田が描いた大学国際都市の日本館も、薩摩の寄付で建設されて同じ1929年に開館している。
〈エコール・ド・パリの寵児〉はそのとき、おそらく絶頂にいた。
これに対し、身も心も食い詰めた〈放浪者〉として流れ着いた光晴の目に、この「花の都」の眺めはどのように映っていたのだろう。
〈はじめから乞食でも、泥棒でもやっていいつもりでマルセイユの港にはい上がった僕のような人間は、ちょっとちがう。そのうえ、それまでは、芸術などにかかわりあっていた僕は、パリの街に住みつくなり、芸術などじぶんにとっておよそ無縁なこととさとりをひらいた。一度無縁とわかれば、人は振り向いてもみないものだ。生まれかわった僕は、絹ごしの空気でなくても結構呼吸できたし、芸術家をこき下ろすことも、はばかりなくやってみせることもできる、融通無碍な心境になることもできた〉
よりを戻すつもりで再会した妻との関係も、はかばかしく改まったわけではない。三千代の長崎の実家の父親が帰国旅費として送ってきた金を勝手に使い込んでしまう光晴のふるまいは、不倫の相手とようやく別れてパリでの再会を待っていた女に大きな失望をもたらしたはずだが、意趣返しのように彼女は詩人のデスノスと親密な関係を持った。
シャンジュ・シュバリエ。パーティーで踊りの相手を途中で代える作法にかけて、この街では自由恋愛のことをそう呼ぶ。光晴はそれを「昨日は他人のこと、明日はわが身、と心を寒くする」と受け止めて考える。
あまりにも自由なパリ暮らしが染みついてきて、眼に見えない縛縄がばらばらとちぎれてゆき、頑ななモラルでしばられていた女が当然の権利をつかもうとして、他の男のふところに飛び込む。「さてこそはパリに来てクープル(カップル)の組み替えが多いのだという確証が、僕にも実感としてつかめてきた」と男は書いている。
藤田のアトリエを夫婦で訪ねた年の翌年の暮れ、光晴は若い日に訪れて縁を得た日本美術蒐集家のイヴァン・ルパージュを頼ってベルギーのブリュッセルへ居場所を移した。そこで描いた風景などの水彩画を集めて小さな個展を開き、ルパージュはそれらを引き取って帰国の費用を工面してくれた。
再び三千代を欧州に残し、光晴が足かけ5年にわたる旅を切り上げて帰国するのは1932年の5月である。その帰路、立ち寄ったマレー半島の風土が気に入って、4カ月にわたりマレー、スマトラを彷徨する。とりわけバトパハという、マラッカ海峡に面した鄙びた南洋の小邑の日々は、爛熟した西洋文明の影で猛々しい自然の中に流れる、湿気を含んだアジアの孤独な詩魂を彼に目覚めさせ、詩人の境涯を代表する作品の揺籃(ようらん)となった。
